祥月命日
2012年 08月 16日
今日は、父の祥月命日。
あれは21年前の今日。
ちょっとしたことで手術のために地元の総合病院に入院していた父は、今日の夜、突然容態が悪化して急死したのです。
それは誰にも予想がつかないことでした。そして、それはきっと本人にも。
同じ病室の人の言葉を借りれば。。。
寝る前にトイレに行くと言って、トイレに立ったまま帰らなかった、となる。
私と同じで外面が良くって、病室でも他の患者さんをいつも笑わせているような父だった。
その時、私は、たまたま夏期休暇で実家に帰省している時で、しかも、翌日帰京予定だった。
もう死ぬような病気ではなかったが、重い糖尿病を患っていて、手術の為に止めていたインスリンを再開したのがこの日だった。死因は、今でこそわかっているが、その当時はわからなかった「インスリンショック」だった。
その夏、私は初めて自分の車を持ち、その車で帰省していたのだった。父は、私の車をひと目見たい、乗りたいと言っていたが、なんでもない手術も成功していたし、見るからに順調そうだったので、私も「良くなれば乗れるから」と言っていたのだった。
私は、翌日の帰京に備えて、看病の母を残して一人実家に帰った。
そしてその連絡を貰ったのは、近所から貰った獲れたてのスルメイカの刺身を作ろうと、その透明なイカの身を裁いているときだった。
普段なら「(母が)帰るのが遅くなりそうだから先に寝ていていいよ」というところなのだろうが、この時は違った。「すぐ(病院に)来い」だった。
それでも、まだ父がちょっと具合が悪い程度だろうと思って、それでも、いつもよりもスピードを上げて病院に向かった。病院について、病室に行くと、別な部屋から呼ばれた。処置室みたいなところだった。父は全裸で横たわっていた。母はベッドのとなりで、ただ佇んでいた。
母から「至急、アメリカにいる兄に連絡を取れ」と言われた。
兄とその家族は、アメリカに留学中だった。
病院からは国際電話をかけさせてくれなかった。
仕方が無く、一番近い親戚の家へ。それでも、車で10分以上かかった。
なんだか、よくないことが起きているみたいだった。
親戚の家から国際電話をかけさせてもらった。そして、すぐに病院に戻った。
父の血圧のデジタル表示が、ものすごいスピードで、00に近づいていった。
もう、どうにもならないのだと、初めて悟った。
母もようやく事態に気がついたようだった。
お医者さんも看護婦さんも無言だった。
誰かが何かを言わなければいけない重苦しい雰囲気だった。
誰かが=親族が、 何かを=もういいです、と。
私が口を開いた。
もういいです。
看護婦さんの人工呼吸器の操作が止まった。
そこで重苦しい雰囲気が終わって、誰からともなくため息で部屋が満たされた。そして直後から、すすり泣きがいっぱい聞こえてきた。部屋には親戚や近所の人たちでいつの間にか溢れていた。
いったいどこから情報があったのか。。。(それが田舎なのだけれど)
お盆で、みんなお酒を飲んでしまっていて、父の会社の運転手さんも、父の会社の関係の運転できる人も、誰も、いつになっても病院には来なかった。
簡単な解剖の後、父の遺体を実家に運ぶことになったが、車がなかった。
そこで、提案。
父は生前(と言っても、ついさっきだが)、私の車に乗りたがっていた。だから。。。
すぐに私の車(ハードトップ)に遺体を載せる準備をした。と言っても、助手席から後ろの席に横たわらせて、後ろの席で遺体の頭を支える、という、とても簡単なものだった。
自宅までの道のり、父は、私の車の助手席で眠っているかのようだった。きっとすれ違った車にもそう見えたに違いない。
全く信じられなかった。ともすると叫びたくなるのを抑えて、なんとか落ち着かせて、自宅までの20分間をしっかり運転した。自宅の入り口が、一番の難所だった。もう緊張しまくりだったけれど、ここで緊張の糸が切れてしまって、車をぶつけてしまった。
もう何がどうなっているのか、それからは、もうわけがわからなかった。。。
21年も前のことなのに、昨日の事のように思い出す。
「もういいです」。
何がどういいのかわからなかったけれど、あの時、その言葉を言って良かったのかどうか、今でも自問自答することがある。
ところで、父は、いまどこにいるのか。ちゃんと行くべきところにたどり着いたのだろうか。
一昨年の秋に逝った母は時々夢に出てきてくれるけれど、父はほとんどない。
今晩の灯篭流しで、ちゃんと行くべきところに辿り着いて欲しいなぁ。
あれは21年前の今日。
ちょっとしたことで手術のために地元の総合病院に入院していた父は、今日の夜、突然容態が悪化して急死したのです。
それは誰にも予想がつかないことでした。そして、それはきっと本人にも。
同じ病室の人の言葉を借りれば。。。
寝る前にトイレに行くと言って、トイレに立ったまま帰らなかった、となる。
私と同じで外面が良くって、病室でも他の患者さんをいつも笑わせているような父だった。
その時、私は、たまたま夏期休暇で実家に帰省している時で、しかも、翌日帰京予定だった。
もう死ぬような病気ではなかったが、重い糖尿病を患っていて、手術の為に止めていたインスリンを再開したのがこの日だった。死因は、今でこそわかっているが、その当時はわからなかった「インスリンショック」だった。
その夏、私は初めて自分の車を持ち、その車で帰省していたのだった。父は、私の車をひと目見たい、乗りたいと言っていたが、なんでもない手術も成功していたし、見るからに順調そうだったので、私も「良くなれば乗れるから」と言っていたのだった。
私は、翌日の帰京に備えて、看病の母を残して一人実家に帰った。
そしてその連絡を貰ったのは、近所から貰った獲れたてのスルメイカの刺身を作ろうと、その透明なイカの身を裁いているときだった。
普段なら「(母が)帰るのが遅くなりそうだから先に寝ていていいよ」というところなのだろうが、この時は違った。「すぐ(病院に)来い」だった。
それでも、まだ父がちょっと具合が悪い程度だろうと思って、それでも、いつもよりもスピードを上げて病院に向かった。病院について、病室に行くと、別な部屋から呼ばれた。処置室みたいなところだった。父は全裸で横たわっていた。母はベッドのとなりで、ただ佇んでいた。
母から「至急、アメリカにいる兄に連絡を取れ」と言われた。
兄とその家族は、アメリカに留学中だった。
病院からは国際電話をかけさせてくれなかった。
仕方が無く、一番近い親戚の家へ。それでも、車で10分以上かかった。
なんだか、よくないことが起きているみたいだった。
親戚の家から国際電話をかけさせてもらった。そして、すぐに病院に戻った。
父の血圧のデジタル表示が、ものすごいスピードで、00に近づいていった。
もう、どうにもならないのだと、初めて悟った。
母もようやく事態に気がついたようだった。
お医者さんも看護婦さんも無言だった。
誰かが何かを言わなければいけない重苦しい雰囲気だった。
誰かが=親族が、 何かを=もういいです、と。
私が口を開いた。
もういいです。
看護婦さんの人工呼吸器の操作が止まった。
そこで重苦しい雰囲気が終わって、誰からともなくため息で部屋が満たされた。そして直後から、すすり泣きがいっぱい聞こえてきた。部屋には親戚や近所の人たちでいつの間にか溢れていた。
いったいどこから情報があったのか。。。(それが田舎なのだけれど)
お盆で、みんなお酒を飲んでしまっていて、父の会社の運転手さんも、父の会社の関係の運転できる人も、誰も、いつになっても病院には来なかった。
簡単な解剖の後、父の遺体を実家に運ぶことになったが、車がなかった。
そこで、提案。
父は生前(と言っても、ついさっきだが)、私の車に乗りたがっていた。だから。。。
すぐに私の車(ハードトップ)に遺体を載せる準備をした。と言っても、助手席から後ろの席に横たわらせて、後ろの席で遺体の頭を支える、という、とても簡単なものだった。
自宅までの道のり、父は、私の車の助手席で眠っているかのようだった。きっとすれ違った車にもそう見えたに違いない。
全く信じられなかった。ともすると叫びたくなるのを抑えて、なんとか落ち着かせて、自宅までの20分間をしっかり運転した。自宅の入り口が、一番の難所だった。もう緊張しまくりだったけれど、ここで緊張の糸が切れてしまって、車をぶつけてしまった。
もう何がどうなっているのか、それからは、もうわけがわからなかった。。。
21年も前のことなのに、昨日の事のように思い出す。
「もういいです」。
何がどういいのかわからなかったけれど、あの時、その言葉を言って良かったのかどうか、今でも自問自答することがある。
ところで、父は、いまどこにいるのか。ちゃんと行くべきところにたどり着いたのだろうか。
一昨年の秋に逝った母は時々夢に出てきてくれるけれど、父はほとんどない。
今晩の灯篭流しで、ちゃんと行くべきところに辿り着いて欲しいなぁ。
by WofNaka
| 2012-08-16 17:25
| 日記
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