小説を書きたいかなぁ
2013年 06月 08日
文章能力がない私が、今までに2度ほど、小説を書いてみたい、という時があった。
1回めは、作家の三田誠広さんの小説を書く旨の本を(ためしに)読んだとき。
2回めも、やはり、ある作家の自分が小説家になる経過を書いた本を読んだとき。
遠いものが、かなり近づくような、そんな感じを受けた。
その後、文章を書く時に、かなりある注意点を気にしながら文章を打つことが多い。
特に、見た夢をブログに投稿する時には小説をかなり意識しながら書くことが多い。
それは、夢って、本人の感覚の中にあって、第三者にその感覚を伝えることが非常に難しい。だから、本当は、そこまではっきりとは見ていないものについても、前後の状況に矛盾がおきないような描写にしたり、言葉を選んだり、若干ながら補足したりして、誰が見ても状況を想像できるようになりたい、との思いで書くようにしている。
その夢も、見たものをブログにアップして、もう150件ほどになる。
当初は、何も考えずに投稿してきているから、なんだかわからないかもしれないけれど、自分の中に、その時の情景がはっきりと思い出されてくるのはとても不思議だ。
きっと、頭の中のどこかに、それがしまい込まれているのだと思う。
さて、もうひとつ、最近、やってみておもしろいと感じることがあった。
自分のことは通常「私」と書くけど、これを名前に置き換えて自分のことを書いてみた。
これは中学生の時だったか、小学生の時の国語の授業だったかは覚えていないけれど、創作とかいう授業で、自分ではない誰かを主人公とした作文を書くというものだった。
今回は、普段、自分が呼ばれていない名前(愛称)で、自分のことや周囲のことを書いたのだけれど、自分であって自分でない、なんとも奇妙なものが出来上がって、なかなか楽しい。
普段赤裸々に書いてはいるものの、もっと別な視点で書くことができるのではないかと、思った。
ちょっとはまりそう。
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1回めは、作家の三田誠広さんの小説を書く旨の本を(ためしに)読んだとき。
2回めも、やはり、ある作家の自分が小説家になる経過を書いた本を読んだとき。
遠いものが、かなり近づくような、そんな感じを受けた。
その後、文章を書く時に、かなりある注意点を気にしながら文章を打つことが多い。
特に、見た夢をブログに投稿する時には小説をかなり意識しながら書くことが多い。
それは、夢って、本人の感覚の中にあって、第三者にその感覚を伝えることが非常に難しい。だから、本当は、そこまではっきりとは見ていないものについても、前後の状況に矛盾がおきないような描写にしたり、言葉を選んだり、若干ながら補足したりして、誰が見ても状況を想像できるようになりたい、との思いで書くようにしている。
その夢も、見たものをブログにアップして、もう150件ほどになる。
当初は、何も考えずに投稿してきているから、なんだかわからないかもしれないけれど、自分の中に、その時の情景がはっきりと思い出されてくるのはとても不思議だ。
きっと、頭の中のどこかに、それがしまい込まれているのだと思う。
さて、もうひとつ、最近、やってみておもしろいと感じることがあった。
自分のことは通常「私」と書くけど、これを名前に置き換えて自分のことを書いてみた。
これは中学生の時だったか、小学生の時の国語の授業だったかは覚えていないけれど、創作とかいう授業で、自分ではない誰かを主人公とした作文を書くというものだった。
今回は、普段、自分が呼ばれていない名前(愛称)で、自分のことや周囲のことを書いたのだけれど、自分であって自分でない、なんとも奇妙なものが出来上がって、なかなか楽しい。
普段赤裸々に書いてはいるものの、もっと別な視点で書くことができるのではないかと、思った。
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by wofnaka
| 2013-06-08 15:01
| 日記
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