人気ブログランキング | 話題のタグを見る

1961年生れ/東ニ病気ノコドモアレバ…西ニツカレタ母アレバ…南ニ死ニサウナ人アレバ…北ニケンクヮヤソショウガアレバ…/弱い立場中心の世の中に/陸前高田市が故郷 @ja1toe


by WofNaka

正信

こう書いて「しょうしん」と読む。父の名だ。お寺に生まれた。小さいころのことはよくわからないけど、青年時代には村の青年を率いていろんなこと(ブラスバンドを作ったり)をしていたらしい。戦争では、南に送られるべく、鹿児島まで移動し、明日明日船に乗る段になって終戦を迎えたと聞いた。
 
その後、親戚の伝で、遠洋漁業の網元に勤める。坊主の息子が魚捕りになった、と言っていた。そのうち、私の実家がある町の漁業協同組合に足を運ぶ事になり、そこで母を見つける。会社からお金を借りて結婚式を行い、自分の実家の宗派を捨てて、名前だけ持って母の元へ、結婚した。
 
私の記憶のとしては、日々、父は出張で居なかった。ほとんどが三浦三崎、でなければ伊勢。最大で3隻のマグロはえ縄船を持って地球の裏側にまで船はでかけていた。地球を2回ほど単身で回ったこともあった父。度胸だけで。
 
生活の中には、魚は貰って食べるもの、お中元とお歳暮には、長さが2m重さ100kgを越える冷凍マグロが1本届いて、チェーンソーで細切れにしていく。それを同じ地区のすべての家に配るのだ。そうやって、私は近所付き合いを身体で憶えていく。
 
船の出港は気仙沼から。当時はまだ今のような立派な道がなかったから、毎回酷い車酔いをしながら船を送りについて行ったっけ。19時半になると、専用の受信機で遠洋からの船の情報を得る。水温の小数点1桁めが暗号になっていて、それでその日の漁獲高がわかるのだ、それを聞いて父は一喜一憂していた。その関係で、我が家に無線機(TSー801)が届き、それがきっかけで、私ら兄弟がアマチュア無線の免許をとることにも繋がる。
 
遠洋からのお土産の中には果物が多く、珍しいものが多かった。当時はまだ日本にはなかった、1枚ずつになったチーズもあった。家を建てるときに伊勢から15mの木を何本か船で運び、通し柱とした。これが震度7に耐える家の基礎にもなっているのだ。
 
両親ともに、さまざまな人からの相談に乗ることが多かったし、仲人も多くつとめた。きっと信頼されていたんだろうと思う。
 
広がりすぎて、困ったなぁ。
 
面倒見がいい父だった。宮城県沖地震の時は、すぐに水と食料を積んで兄が下宿している仙台に出発した。(母も、新潟中越沖地震の時は、自分で作った和服を被災地の親戚に届けていたらしい)そういう血は、引き継いでいるなぁ、私。
 
そんな父が急逝した後、私は父のことを何も知らなかったことに気がつき、その名前の持つ意味を、何を期待した名前だったのかを追いかけた。急逝した父への思いも整理がつかず、いつしか秩父にある34の札所巡りをしていたっけ。そして、今にたどりついた。でも、父の名前の意味は、未だにわかっていない。あの世に行ったら、じいちゃんにでも聞いてみるか。名付け親でないとそこに込めた意味なんてわからんよね。
 
さて、こう振り返ってみると、私は、とうちゃんの子だな、ってわかるよ。病気とかも受け継いだし、名前だけ持って結婚したとこ、災害系のボランティアもやってるし。今までは、かあちゃん似だし、かあちゃん子だったとばかり思ってたけどね、とうちゃんのも沢山もらってるよ。
 
そして、今日は河口湖で灯ろう流しがある。
私は毎年、母に言いつけられて、川流しをさせられた。最初は、近所の流れがある場所で、そのうちに田んぼの方に車ででかけて流すようになった。あれも、先祖を供養する行事のひとつだったわけだね。その時はよくわからなかったけど。
 
十分に両親のものを受け継いできているわ、私。





「にほんブログ村」に参加しています。下の絵、またはボタンを押していただけませんか。
ブログランキング・にほんブログ村へ

by WofNaka | 2015-08-16 08:19 | 日記 | Trackback | Comments(0)