震災後の故郷への旅 〜津浪のあのとき、そして今〜

今回の故郷への旅の中で、震災当時の状況を知ることができるだろう、ということも目的の一つだった。
誰が言ったかは、読む人が読めばわかるだろうけど、念のため、わからないように順不同に並べてみます。
また、実際の発言への補足もしています。ご了承ください。

<深夜にも大津波があったのではないか>
・3月11日の23時頃にも大きな津浪が来たらしいんだが、夜だし暗いしで、だれも津浪は見ていない。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。今も行方不明と聞いている。神や仏はいるんだなと思った。
・近所のおばあさんが、夕方まであった自宅が夜が明けたら無くなっていたから、夜津浪があったのかもしれないと言っていた。
・その建物の一番てっぺんでかろうじて津浪から逃れた人に、深夜津浪がなかったかを聞いたけれど、自分が生きるのに精一杯で、下で何が起きているのか知らないと答えた。
・深夜23時の津浪はわからないけれど、日中大船渡湾内に浮かんでいたタグボートが、夜が明けたら、陸地の奥にあった。きっと大きな津浪があったんだと思う。暗いから誰も気がついていないけど。

<遺体探し>
・遺体を調べるのに、ひとりひとりの口を開けて、1本1本の歯を調べていく。とてもできない作業だと思うけれど、それを誠心誠意取り組んでいる姿に頭が下がる思いだった。
・水に浸かった遺体は身長が5cmくらいは伸びているものだと警察官から聞いたけれど、もっとそういう情報は早く欲しかった。身長が違うから、自分の子供だと気がつかなかった。
・ジャージのような服装をしていた人達の遺体は、全部脱げて無くなっていて、全裸の遺体が多かった。バンドなどで締め付けるような服装は脱げなかった。遺体にあったブラジャーに見覚えがあって自分の子供とわかった。
・最終的にはDNA鑑定になったが、3週間もかかると言われて途方に暮れたけれど、最終的にそれを受け入れた。
・昔の人の話だけれど、夜になると遺体から燐が出て炎が見えるので、それで遺体がどこにあるのかわかると言われて怖かった。
・昔の震災時(明治・昭和の三陸大津波の時の話)には、地引き網を使って遺体を収容した。砂浜に水を蒔くと砂浜に脂が浮いて来る場所がある。そこに遺体が埋まっている。

<ガソリンの使い道>
・自分の車は軽油車だったから、車に関してはガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。職場関係で灯油を保存しているところから灯油をもらって、走ることができた。
・発電機もバッテリーも十分にあったから、無線で発信することもできたけれど。自宅に集まった避難者のこと(つまり当座の生活のこと)を考えるとガソリンを無線機用に使うことができなかった。
・自分の車は軽油車だったから、ガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。

<火事場泥棒>
・火事場泥棒はすぐに現れた。見知らぬ人がいたので声をかけたが、遠くから家族を捜しに来た、と言われたら何も言えなくなった。でも、手当たり次第に、バックを開けて中身を確認していた。
・津浪の後で、物を探しに出かけた人が、めぼしい物があるとマジックで自分の名前を書き入れていったそうな。でもそれを自宅があったところに積み重ねていたら、それをごっそりと盗まれてしまったらしい。神も仏もいるわけだなぁ。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。今も行方不明と聞いている。神や仏はいるんだなと思った。(再掲載)

<気がつかない? 逃げるを知らない?>
・津浪が来ているのにわからずに店内の掃除をしている人がいた。「津浪が来ている、早く上に上がれ」と何度も叫んだのを聞いて、かろうじて逃げることができた。そのご夫婦は「天からそういう声が聞こえたから逃げた」と言ったそうだ。
・陸前高田の人の多くは津浪が来ても逃げることが思いつかなかったのではあるまいか。津浪、即逃げる、が教育されていなかった可能性がある。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)
・広田町の海に近いところに住んでいるあるご婦人は、ご主人が戻らなければ一歩もそこを動かないと言い張ったらしいが、なんとか津浪の直前に、他の人に手を引かれて逃げて無事だった。
・津浪のビデオを撮影していた人が、反対側から線路伝いに来た津浪で亡くなった。ビデオ撮影していると自分の位置がわからなくなる。自分は携帯電話を持っていなかったから、生き延びることができたのだと思う。もっと多くの人がビデオやら写真撮影をしていながら波にのまれたのではないかと思う。

<自衛隊の活躍>
・一旦避難した後で有志を募って遺体捜索に出かけたが見つけることはできなかった。後で同じ場所に自衛隊が入って捜索をしたら、そこから6人が見つかった。一つの遺体を見つけると、そこに白い旗を立て、その付近を捜索している自衛隊員がみなそこに集まり合掌をする。とても遺体を丁寧に扱っていて有り難かった。

<避難所で・・・自分ができることを精一杯やった>
・津浪で運良く逃げおおせた後で、お寺に避難していた。職業柄、お寺への出入りがあった。すぐにお墓に行って、集められるだけのロウソクを集めた。またお寺に保管してあるロウソクをもらったり、他のお寺にも行ってロウソクをひたすら集めた。
・仕事から帰ったら必ず小銭入れから小銭を出して保管しておいたんだけれど、その中から5百円玉を奥さんがこっそりへそくりにしていたらしい。震災後に変色したお金を仕方なく奥さんが出してきた。変色していたお金を1枚1枚酢で洗って数えてみたら30万円にもなっていた。30年間のへそくりだった。それを、寄付したとのこと。まったくできた夫婦だよ。
・山の中腹にある職場には大勢の避難民が来ていた。古い建物を保存している場所なので、鍋釜が使えて火もおこせる状態にあった。乾麺を自宅から大量に運びこんで、まずは身体を温めて欲しいと思い、みなに振る舞った。その職場で2週間、避難民のために尽くしたが、上司からもう自宅のことをしなさい、と言われて帰宅した。
・夜間に灯りを付けると、やっかみが起きる可能性があったから、発電機は明るいうちに使って、日暮れとともに寝て夜明けと共に起きるようになった。
・お風呂に入りたいから、30L入れられるタンクに水を入れて運んだ。でも、お風呂に入る順番は子供達が先で、結局、自分が入る時には水位は数センチほどで入れなかった。

<トラウマ>
・津浪の後から必ず午前2時目が覚めてしまうようになった。トラウマになった。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)(再掲)
今は、高台に引っ越したので30mの津浪が来ても安心な場所に住んでいるけれど、地震の度に、びっくりして逃げようとしたり、気持ちが落ち込むなどする。PTSD状態になってしまった。

<津浪来襲>
・阪神淡路大震災の時にも縁があった。東日本大震災でも2日前に陸前高田市内を散歩したし、当日の午前中には、年度末だからと消耗品を過剰なほどに購入。生活で使うお金も引き出しておいたし、食料も多めに購入していた。そしてその日の午後に津浪が来た。自分は山の中腹にある職場から津浪の一部始終を見ていた。気持ちが動いたのは最初だけだった。なんかこれを目に焼き付けて後世に語りついでいくのが自分の使命だと、そのとき天の声を聞いたと思った。それからしばらくは何の感情も起きず、ただ、陸前高田市が津浪に襲われていくのを見守った。
・一旦逃げたけど、ものを取りに戻った人の多くが津浪にやられた。自分も携帯電話を持っていないことに気がついて海岸のそばにある職場に戻ろうとしたけれど、鍵を開けるのに戸惑って諦めた。職場の入り口が津浪の死角に入っていたから怖くて仕方がなかった。そしてとりあえず、すぐ近くを走っているJR大船渡線の線路に上がった。ほどなくして津浪が来襲。津浪は線路と交差している旧国道のをまっすぐに駆け上がった。ここにいてはダメだととっさに思って、法面を上がろうとしたが革靴だったためと刈ったばかりの草地で滑って上れなかった。なんとか上って、道路沿いに止めていた車に乗りエンジンをかけた。車のタイヤはすでに津浪の波を被っていた。そこでもしエンジンが掛からなかったら、その車は捨てようと思ったけれど、一発でエンジンが掛かったので、そのまま高台に逃げることができた。
(車や携帯に固執せずに助かった)

<家族、家>
・自分の家があった場所に行ったら、自分が使っている野球のヘルメットが落ちていた。その先には自分が最近購入したパンツがあるのを奥さんが見つけた。そしてその先に2階屋の自宅が平屋になってあった。
・ご主人が陸前高田市内にいて被災したらしいことを聞いて、いてもたってもいられなくなった。後で無事生還して再会できたけれど、夜寝ている時に、本当にこの主人は生きて帰ってきたのか、足がないのではないかと、幾度も足を触っては、生存確認をした。

<震災後の話>
・自分の車は子供が乗っていってしまったので、家族の車を借りて仕事に行こうとして、スリップしてガードレールの隙間から水路に落下してしまった同級生がいる。ガードレールに擦り傷でもあれば、すぐに事故に気づいた人もいたかもしれないが、ガードレールの隙間から落ちたので、しばらく誰にも気づかれなかったようだ。自分の車ならまだしも、他の車だったために逃げられず、そのまま水死してしまった。悔やんでも悔やみきれない事故だった。
・海の中にはまだまだ瓦礫がある、車なども海中を覗くと見える。一応、遺体の捜索はしたようだけれど、あれが残っていると漁に支障がある。でも、今更引き上げたところで大変。お金もないし。特に座布団などはひどい臭いがする。

<その他>
・大船渡や気仙沼の車の残骸は、車の形を保っていたが、陸前高田の車の残骸は、どうすればあんなに潰れるのかと思うほどグシャグシャに潰れてスクラップのようだった。なぜだ。
・大船渡市内の場合は、家の基礎の部分がみな一様に折れて、そのままの形のままで家々が流された。

<不満>
・沼や海の捜索。自衛隊員のような捜索はしない形だけの捜索では見つかるものも見つからない。
・責任ある部署の人が犠牲になった。今は当時責任がなかった人(つまりは逃げおおせた人)が幹部になっている。考え方も発言の仕方を知らない人がやっているから話が進まない。
・復興住宅も、高台の家(または土地)もがら空きだ。
・陸前高田の土盛りした場所、あんなやり方では。。。道路も毎回通行止めの場所が変わる。あれでは地元の人でも迷ってしまう。



また、思い出したら追記します。


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by WofNaka | 2017-08-17 00:24 | 災害&ボランティア  

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