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震災後の故郷への旅 〜津浪のあのとき、そして今〜

今回の故郷への旅の中で、震災当時の状況を知ることができるだろう、ということも目的の一つだった。
誰が言ったかは、読む人が読めばわかるだろうけど、念のため、わからないように順不同に並べてみます。
また、実際の発言への補足もしています。ご了承ください。

<深夜にも大津波があったのではないか>
・3月11日の23時頃にも大きな津浪が来たらしいんだが、夜だし暗いしで、だれも津浪は見ていない。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。今も行方不明と聞いている。神や仏はいるんだなと思った。
・近所のおばあさんが、夕方まであった自宅が夜が明けたら無くなっていたから、夜津浪があったのかもしれないと言っていた。
・その建物の一番てっぺんでかろうじて津浪から逃れた人に、深夜津浪がなかったかを聞いたけれど、自分が生きるのに精一杯で、下で何が起きているのか知らないと答えた。
・深夜23時の津浪はわからないけれど、日中大船渡湾内に浮かんでいたタグボートが、夜が明けたら、陸地の奥にあった。きっと大きな津浪があったんだと思う。暗いから誰も気がついていないけど。

<遺体探し>
・遺体を調べるのに、ひとりひとりの口を開けて、1本1本の歯を調べていく。とてもできない作業だと思うけれど、それを誠心誠意取り組んでいる姿に頭が下がる思いだった。
・水に浸かった遺体は身長が5cmくらいは伸びているものだと警察官から聞いたけれど、もっとそういう情報は早く欲しかった。身長が違うから、自分の子供だと気がつかなかった。
・ジャージのような服装をしていた人達の遺体は、全部脱げて無くなっていて、全裸の遺体が多かった。バンドなどで締め付けるような服装は脱げなかった。遺体にあったブラジャーに見覚えがあって自分の子供とわかった。
・最終的にはDNA鑑定になったが、3週間もかかると言われて途方に暮れたけれど、最終的にそれを受け入れた。
・昔の人の話だけれど、夜になると遺体から燐が出て炎が見えるので、それで遺体がどこにあるのかわかると言われて怖かった。
・昔の震災時(明治・昭和の三陸大津波の時の話)には、地引き網を使って遺体を収容した。砂浜に水を蒔くと砂浜に脂が浮いて来る場所がある。そこに遺体が埋まっている。

<ガソリンの使い道>
・自分の車は軽油車だったから、車に関してはガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。職場関係で灯油を保存しているところから灯油をもらって、走ることができた。
・発電機もバッテリーも十分にあったから、無線で発信することもできたけれど。自宅に集まった避難者のこと(つまり当座の生活のこと)を考えるとガソリンを無線機用に使うことができなかった。
・自分の車は軽油車だったから、ガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。

<火事場泥棒>
・火事場泥棒はすぐに現れた。見知らぬ人がいたので声をかけたが、遠くから家族を捜しに来た、と言われたら何も言えなくなった。でも、手当たり次第に、バックを開けて中身を確認していた。
・津浪の後で、物を探しに出かけた人が、めぼしい物があるとマジックで自分の名前を書き入れていったそうな。でもそれを自宅があったところに積み重ねていたら、それをごっそりと盗まれてしまったらしい。神も仏もいるわけだなぁ。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。今も行方不明と聞いている。神や仏はいるんだなと思った。(再掲載)

<気がつかない? 逃げるを知らない?>
・津浪が来ているのにわからずに店内の掃除をしている人がいた。「津浪が来ている、早く上に上がれ」と何度も叫んだのを聞いて、かろうじて逃げることができた。そのご夫婦は「天からそういう声が聞こえたから逃げた」と言ったそうだ。
・陸前高田の人の多くは津浪が来ても逃げることが思いつかなかったのではあるまいか。津浪、即逃げる、が教育されていなかった可能性がある。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)
・広田町の海に近いところに住んでいるあるご婦人は、ご主人が戻らなければ一歩もそこを動かないと言い張ったらしいが、なんとか津浪の直前に、他の人に手を引かれて逃げて無事だった。
・津浪のビデオを撮影していた人が、反対側から線路伝いに来た津浪で亡くなった。ビデオ撮影していると自分の位置がわからなくなる。自分は携帯電話を持っていなかったから、生き延びることができたのだと思う。もっと多くの人がビデオやら写真撮影をしていながら波にのまれたのではないかと思う。

<自衛隊の活躍>
・一旦避難した後で有志を募って遺体捜索に出かけたが見つけることはできなかった。後で同じ場所に自衛隊が入って捜索をしたら、そこから6人が見つかった。一つの遺体を見つけると、そこに白い旗を立て、その付近を捜索している自衛隊員がみなそこに集まり合掌をする。とても遺体を丁寧に扱っていて有り難かった。

<避難所で・・・自分ができることを精一杯やった>
・津浪で運良く逃げおおせた後で、お寺に避難していた。職業柄、お寺への出入りがあった。すぐにお墓に行って、集められるだけのロウソクを集めた。またお寺に保管してあるロウソクをもらったり、他のお寺にも行ってロウソクをひたすら集めた。
・仕事から帰ったら必ず小銭入れから小銭を出して保管しておいたんだけれど、その中から5百円玉を奥さんがこっそりへそくりにしていたらしい。震災後に変色したお金を仕方なく奥さんが出してきた。変色していたお金を1枚1枚酢で洗って数えてみたら30万円にもなっていた。30年間のへそくりだった。それを、寄付したとのこと。まったくできた夫婦だよ。
・山の中腹にある職場には大勢の避難民が来ていた。古い建物を保存している場所なので、鍋釜が使えて火もおこせる状態にあった。乾麺を自宅から大量に運びこんで、まずは身体を温めて欲しいと思い、みなに振る舞った。その職場で2週間、避難民のために尽くしたが、上司からもう自宅のことをしなさい、と言われて帰宅した。
・夜間に灯りを付けると、やっかみが起きる可能性があったから、発電機は明るいうちに使って、日暮れとともに寝て夜明けと共に起きるようになった。
・お風呂に入りたいから、30L入れられるタンクに水を入れて運んだ。でも、お風呂に入る順番は子供達が先で、結局、自分が入る時には水位は数センチほどで入れなかった。

<トラウマ>
・津浪の後から必ず午前2時目が覚めてしまうようになった。トラウマになった。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)(再掲)
今は、高台に引っ越したので30mの津浪が来ても安心な場所に住んでいるけれど、地震の度に、びっくりして逃げようとしたり、気持ちが落ち込むなどする。PTSD状態になってしまった。

<津浪来襲>
・阪神淡路大震災の時にも縁があった。東日本大震災でも2日前に陸前高田市内を散歩したし、当日の午前中には、年度末だからと消耗品を過剰なほどに購入。生活で使うお金も引き出しておいたし、食料も多めに購入していた。そしてその日の午後に津浪が来た。自分は山の中腹にある職場から津浪の一部始終を見ていた。気持ちが動いたのは最初だけだった。なんかこれを目に焼き付けて後世に語りついでいくのが自分の使命だと、そのとき天の声を聞いたと思った。それからしばらくは何の感情も起きず、ただ、陸前高田市が津浪に襲われていくのを見守った。
・一旦逃げたけど、ものを取りに戻った人の多くが津浪にやられた。自分も携帯電話を持っていないことに気がついて海岸のそばにある職場に戻ろうとしたけれど、鍵を開けるのに戸惑って諦めた。職場の入り口が津浪の死角に入っていたから怖くて仕方がなかった。そしてとりあえず、すぐ近くを走っているJR大船渡線の線路に上がった。ほどなくして津浪が来襲。津浪は線路と交差している旧国道のをまっすぐに駆け上がった。ここにいてはダメだととっさに思って、法面を上がろうとしたが革靴だったためと刈ったばかりの草地で滑って上れなかった。なんとか上って、道路沿いに止めていた車に乗りエンジンをかけた。車のタイヤはすでに津浪の波を被っていた。そこでもしエンジンが掛からなかったら、その車は捨てようと思ったけれど、一発でエンジンが掛かったので、そのまま高台に逃げることができた。
(車や携帯に固執せずに助かった)

<家族、家>
・自分の家があった場所に行ったら、自分が使っている野球のヘルメットが落ちていた。その先には自分が最近購入したパンツがあるのを奥さんが見つけた。そしてその先に2階屋の自宅が平屋になってあった。
・ご主人が陸前高田市内にいて被災したらしいことを聞いて、いてもたってもいられなくなった。後で無事生還して再会できたけれど、夜寝ている時に、本当にこの主人は生きて帰ってきたのか、足がないのではないかと、幾度も足を触っては、生存確認をした。

<震災後の話>
・自分の車は子供が乗っていってしまったので、家族の車を借りて仕事に行こうとして、スリップしてガードレールの隙間から水路に落下してしまった同級生がいる。ガードレールに擦り傷でもあれば、すぐに事故に気づいた人もいたかもしれないが、ガードレールの隙間から落ちたので、しばらく誰にも気づかれなかったようだ。自分の車ならまだしも、他の車だったために逃げられず、そのまま水死してしまった。悔やんでも悔やみきれない事故だった。
・海の中にはまだまだ瓦礫がある、車なども海中を覗くと見える。一応、遺体の捜索はしたようだけれど、あれが残っていると漁に支障がある。でも、今更引き上げたところで大変。お金もないし。特に座布団などはひどい臭いがする。

<その他>
・大船渡や気仙沼の車の残骸は、車の形を保っていたが、陸前高田の車の残骸は、どうすればあんなに潰れるのかと思うほどグシャグシャに潰れてスクラップのようだった。なぜだ。
・大船渡市内の場合は、家の基礎の部分がみな一様に折れて、そのままの形のままで家々が流された。

<不満>
・沼や海の捜索。自衛隊員のような捜索はしない形だけの捜索では見つかるものも見つからない。
・責任ある部署の人が犠牲になった。今は当時責任がなかった人(つまりは逃げおおせた人)が幹部になっている。考え方も発言の仕方を知らない人がやっているから話が進まない。
・復興住宅も、高台の家(または土地)もがら空きだ。
・陸前高田の土盛りした場所、あんなやり方では。。。道路も毎回通行止めの場所が変わる。あれでは地元の人でも迷ってしまう。



また、思い出したら追記します。


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by WofNaka | 2017-08-17 00:24 | 災害&ボランティア  

震災後の故郷への旅 〜やさしさに包まれて〜

(少しずつ追記します)
8月13日から本日(15日)まで故郷に出かけてきました。
東日本大震災から6年。震災以降はじめての現地宿泊の旅でした。

今回の目的は、3つ。
①13日に(岩手県立)高田高校の昭和53年度卒業生の同級会があって、そこに参加する。
②震災後に会えないでいる親戚や知人・友人に会うこと。
③墓参り


当初の行程)
★8/13(日)
06:30自宅出発〜8時前東京発の新幹線で一関へ〜レンタカーで14:00からの同級会に参加〜一次会が終わったら、友人と会って、それから宿泊先へ。

★8/14(月)
09:00に宿泊先出発〜お墓参り〜実家の近所の親戚回り〜午後は、広田町の風景など心置きなく走る〜夜は、幼なじみが泊めてくれる〜晩は、昔からの無線仲間宅で今度は幼なじみ同士と再会し、ミニ同級会をする。

★8/15(火)
9時前に幼なじみ出発〜実家に寄り室内を見回る〜大船渡の知人宅へ〜13:30大船渡市赤崎町の津波伝承館に行く〜そして最終目的地の親戚宅へ。
17時に一関に戻ってレンタカーを返却〜18:37の新幹線で東京〜東京駅からはライナーで立川着は22時過ぎ。

これだけでも、かなりハードなスケジュールだと思ってました。

今回主な活動範囲の地図はこちら。
a0265144_21020264.png
そして。。。ここからが、実際の日程です。途中ハプニングもあって、さらなるハードなスケジュールになりました。

※ハプニングの元。
実は、2,3日前から上の前歯の歯茎が腫れ始めていました。疲れがひどいと出る症状のひとつでした。歯医者さんには行ったのですが、抗生剤をもらうほどでもなく、きっとこの3日間は乗り切れるだろうと思っていたのですが、前日、かなり酷い状態になっていて、だましだましいくしかないかな、というそんな先行き不安な状況で旅が始まりました。

★8/13(日)
・06:20自宅を早めに出発・・・8時前東京発の新幹線で一路、一関へ。
・先月7月に松島に出かけた時は身軽だったので、大宮発の新幹線でしたが、今回は、ガラガラを引いてさらにお土産8個を持っていたので、始発からの新幹線に乗りたくて東京駅の始発にしました。
・10:30レンタカーを早めに借りられて一路沿岸方面に。
 途中コンビニでトイレ休憩しようとするものの、なかなか空かず、仕方がないので道向かいにあったホームセンターのトイレへ駆け込む。
・晴れていた天候が、峠超えをする度に雨へと変わっていった。私は雨男で、過去には東京から実家まで車で10時間降り続けだったことがあるので、特に気にはしないけど。
・ループ橋を越えた辺りから足がつることが頻発した。しかもアクセルとブレーキ用の右足。長い下りだったから、軽くブレーキを踏みながら、惰性でもいいから行けるところまでいければと。。。でもまだスタート地点だったから、途方にも暮れていた。
・ひさし振りの運転だったからね、ちょっとしたコツを忘れていてね。それが足のつりに影響していたことに気がつき、足のつりはほどなく解消されましたけど、どうなることかと思った。

・11:40頃に気仙郡住田町と陸前高田市高田町への分岐点にさしかかった。同級会までは2時間以上もある。
・ここで行き先を変更し、最終目的地の親戚宅に先に出かけることに。震災で従兄弟を亡くしたのでお線香を上げに行きたかったのだ。お寺の本堂で読経した。
・ふるさとというところは。。。お昼ご飯とか、おにしめを出してくれるんですよね。もっとも、私が最初に行った時間はお昼の時間だったわけですけど。
・遠慮するために、これから同級会で沢山食べるからと言ったんですが、聞いているのかいないのか(苦笑)、どんどん出てきて。結局お昼をごちそうになってしまった。これから食べるのに、と思ったけれど。

・13:15頃に親戚宅を出て同級会の会場へ。
・陸前高田市高田町に入って。。。「この先(近道)」と書いてあったのでそちらに曲がると、いきなり「この先は通行止め」と片言の日本語で言われ途方に暮れる。迂回路の説明もない。仕方なく、時間がないなと思いつつも元の道に戻り、反対側からアプローチしたら、やはり「この先は通行止め」と言われた。もうやけくそになって「(同級会の会場である)キャピタル(ホテル)に行きたいだけなんだけど」と言ったら、そこまでなら行けるとのこと。なんとも。。。不親切な。そして走っていくといきなり通行止めにぶつかる。そこには誰もいない。周囲の車も戸惑っていて、まったく不親切な町になったと。かさ上げしているから周囲の景色も見えず。本当に情けない町に落ちたな、と思ったよ。そのうちにホテルへの行き先がなんとなくわかり、5分前に会場に到着できた。

<同級会>
・会場に着いてすぐに「なかちゃんだよね」と。もちろんブログでは本名を書かないので、実際には名字で呼ばれたよ。
・受付でも「なかちゃんひさし振り、変わってないね」と言われるものの、私には大きく変わった女性陣の誰一人としてわからなかったのよね。
・名札を渡された。フルネームの横に、卒業写真の顔写真がある。考えたね。これならわかるわ、と感心した。
・同級会では食べるより懐かしい人との話で盛り上がり、ここに来る前の親戚宅でのお昼を頂いたのがどれほど助かったか。
ま、同級会の話は別なところでね。

・17:00一次会が終了し多くの人が二次会に流れる中、私は歯茎の状態が深刻な状態になってしまっていて、二次会への参加を断念する。
・まずは宿に入ろう。ホテルのすぐ近くの宿に向かうが、まだ外が明るいので、少し走ろうかなとか思いつつ北上。そこで目にしたのが「産直はまなす」。
・産直はまなすでは、最近、私の行きつけの東京の職場近くのラーメン屋さんがはまなすから野菜を購入していたので、その辺りのお礼や、お墓参りのお花を買った。
・その後、やっと宿の民宿にチェックイン。この宿は私の幼なじみがやっている。ご主人が毎日魚介類を採って料理を作るのでここに決めていた。

・実は、ここからが長い。朝6時からの一日は、まだまだ終わらない。
・夕食で新鮮な海産物に舌鼓を打ったまでは良かったんだけど、宿に着いたら、もうヘトヘトで動けなくなってしまって、その後で友人に会う予定は翌日以降に延期してもらった。
・歯茎の腫れが酷くて痛みもあって、それを抑えるために、コンビニまで出かけて氷を砕いたものを2カップ買って、宿の冷凍庫に保存。
・風呂上がりに大河ドラマを見ながら、氷を患部に当てた2カップ分。
・それでも痛みは治まらず、疲れはひどく、眠かったので眠剤も飲まずに布団に倒れ込んだ。
・でもね、痛みが眠気よりも勝ったんだろうね。明け方4時まで浅い眠いしかできなかった。長い一日だった。
・朝方、やっと痛みがちょっと引いた頃からやっと眠ることができた。

★8/14(月)
・朝9時チェックアウトだったので、ギリギリ7時半まで寝て、それでも超睡眠不足のまま朝ご飯。ほとんど食べられなかった。残念。
・朝8時半にチェックアウト。幼なじみとの再会を約束して宿を離れた。
・まずはお墓参りだよ、ということで、途中にある薬屋に寄る。歯茎の痛みを止めたい一心で。出発時に沢山持ってきていた痛み止めは底をついていた。
 沢山の量を飲むと運転に差し障るので、半分ずつにして飲んではいたが、もう持っていった6個は使い切ってしまっていた。
・そこでお墓参り用のロウソクと線香のセットを買う。痛み止めはなかった。
・お墓に、実家の井戸からの水を汲んでかけようと思って実家に寄るが、実家の井戸はもう使えなかった。自宅に入り込むも何もなく、仕方なくお墓参りに出かけた。
・お寺の表の駐車場は予想通り沢山の車だったので、すぐに諦めて、昔を思い出しながら裏口駐車。水は掛けられなかったけれど、雨が降っていたし。買ったお花をさして、ろうそくと線香を上げて読経。親戚のお墓と、子供の頃によく遊んでもらったおばあちゃんのお墓でも手を合わせて早々に引き上げた。

・実家への帰り道にある知人の家へ行くもお留守。そりゃそうだ、お墓参りに行ってるよね。
・実家を見てもらっている親戚の家に行った。そこで、なんとは無しに歯茎の状態の話になった。そうしたら、こういう時だけれど、医者に診てもらった方がいい、と休日当番医まで調べてくれた。その当番医は、なんと、昨日最初に行った親戚のうちのそば。今いる場所からは距離にして30kmぐらい。車で約1時間の距離。午前中しか診療していないとのことで電話、1時間以内に訪ねられるからと言い、すぐに車に乗った。
・この親戚宅を出る前に、おにしめの柔らかいところを食べた。美味しかった。そして、出かける直前に、温かいお茶を出してくれた。これが本当に美味しかった。歯茎を冷やすために冷たいものしか摂ってなかったから、この温かさが身に染みた。

・11:00世田米駅前の菅野歯科という歯医者さんでは、これは切開しないと無理と言われた。でも帰省中と伝えると、痛み止めと抗生剤を出してくれた。そして、またトンボ帰り。
・実家に着く前に今食べられると思われるものを買い集めて、実家の庭に車を頭から突っ込んだ。
・12:00車の中で1時間ぐらい眠った。お腹が空いて目が覚めるまで1時間ほど。

  私は何をやっているんだろう。。。悲しくなった。

・それでも、やることはやらないとね。買ってきたバナナやプリンや柔らかいものをとりあえず口の中に押し込んだ。
・13:00近所の親戚宅へ。
・認知症の叔母さんとその娘が暮らす。私が小さい時からお世話になった人たち。ここでも、お昼は食べたか、と優しい心遣い。
・お昼とは到底呼べない私のお昼だったけど、食べてはいたから、食べたとは答えるものの、説得力は全くない。
・ここでも、おにしめをごちそうになった。柔らかくて美味しかった。昔は、味が濃かったから食べられなかったんだ。
 「なかちゃんには、おにしめよりもミカンの山だ」と行く先々の親戚でよく笑われながら、冬はミカンの山を出してくれたっけ。
・1時間少し、そこでお茶っこ飲みをした。
・14時過ぎ、朝不在だった知人の家へ。
・そこでも、おにしめとおこわを出して頂いた。
 みんなの私が食べられるかどうか心配する視線を感じながらも、柔らかいにしめを食べた。でもおこわは無理だった。
 みんなの優しさをここでももらって、その知人宅を後にした。

・15時、初日に会えなかった友人に会おうとするが、電話をするためにとりあえず箱根山に登る。
・そこにある気仙大工の伝承館にも幼なじみがいるんだ。残念ながら、幼なじみはお休みだったけれど、そこに偶然来た昔お世話になった方と再会。
 昔、氷上山で遭難しかかった (リンク先の②の写真、または遭難の記事)時に、お世話になった方でした。そして、そこでコーヒーをごちそうになりながら、近況を語りあった。
・そして、初日会う予定の友人に電話。その友人の自宅にお邪魔することになって下山。

・16:00、そこでも歯茎の件があったから、柔らかいものを出して頂きながら、温かいお茶も心に染み渡った。積もる話をして、娘さんにも会って、さらには何十年ぶりかで会う、友人のご主人にもお会いできて、その日の宿泊地の幼なじみの家へ向かう。
・17:45、本日泊めて頂く幼なじみの立派な家着。
・実はここへの道がわからずに四苦八苦する。途中、どうにもならずに見知らぬお宅にお邪魔した。丁寧に教えてくれるのだが、細かすぎてわからない。
・わかりましたとお礼を言い、わかるところまで走り、そして電話する。
・やっと到着。荷物を降ろして出かけようとしたら、庭に、さきほどのおじさんがいた。
 さきほどはどうも、というと、ちゃんと着いたか心配で散歩がてら見に来た、とのこと。
 いろいろと以前はあった人だとは聞いたけれど、とても優しい。私が道順を聞いても理解できていない、のは見透かされていたのね。

・夜会で訪ねる方は、私がアマチュア無線を取った中学2年生の頃からのつきあいの方ですから、もう40数年ぶりですかね。
・震災で家族を亡くされていて、お線香を上げに行きたかったんだけど、今回になってしまったもの。
・16日の復活の盆踊りの準備で忙しい中に、ひさし振りの宴を開いてくださった。
・が、しかし、ここでも。あー自分の身体が恨めしい。
・ほとんど何も食べられないんだよね。
・そして、うっかり寒い格好のまま出かけてしまっていて、標高50mくらいのところなので寒いのね。寒さで震えが出てしまい1時間以上も止まらなかった。
 でも、みなさんは半袖なのね。それなのに、私のために上着まで用意してくれて、窓を閉め切って、暖房まで付けてくれた。
・そして1時間ほど経過した頃、口の中で異変が。そうです。切開が必要な歯茎、破れて膿みが出た事がわかった。震えもおなじくして止まった。
 ということは、そう、寒くて震えが出たのではなく、おそらく発熱したんだろうな、と。そうとう熱を出したものと思われる。
・今回の旅行には体温計は持たなかった。あえて。途中熱が出ても、周囲に迷惑をかけることにしかならないから、救急車ものになったら話は別だけど、少々の熱ではどうにもならないから、それなら体温を計る機会を持たないようにすればいいじゃないのか、と思ったんだな。
・それはともかく、膿みが出てから、急速に身体が楽になっていった。
ここでの話は別途書くとして。。。

・23時、とまらない津浪の話をここまでとして散会。
・幼なじみ宅でお風呂に入り、寝支度をしたらすっと眠れて、朝6時までぐっすり眠ることができた。当然、痛みは全くなかった。

★8月15日(火)
・08:30今晩も泊まっていけ、という幼なじみ宅を後にした。
・前日会えなかった幼なじみに会いに、箱根山に登る。
・幼なじみに会ったが、7年前と顔つきが違っていて別人かと思った。これも津浪を乗り切ってきた顔なのかと思った。
・今は、この気仙大工の伝承館で、ボランティアに来た方や、観光に訪れた方々に、震災時の体験談を話しているそうだ。
・歌を披露してくれた。
・震災の時のあのモビリアからの救難信号の顛末の発信源だったFIさんと、電話で話すことができた。ご本人は詳細は覚えていなかったけど。
 ここで、少し疑問が。そもそもあの電話は救難信号だったのか。もしかしたら、そうではなかったのかも、という疑問。私は余計なことをしたとは思っていないけれど、ちょっと後で検証が必要な気がした。

・10:30後ろ髪を引かれる思いで、次の訪問地、大船渡のおじさんの家に向かった。
・そこは高台なので津浪の被害は全くなかった。大船渡湾を見下ろせる展望のいいところに建っている。
・父の生前勤めていた会社関係の親戚の家。
・ここでお昼をごちそうになった。

・13:30最後の目的地、大船渡町赤崎にある津波伝承館に着いた。
・Facebookで震災の月命日にアップされる記事にいつもコメント書いていたのだが、是非会いたいと思っていたんだ。
・震災の生々しい話を聞く。どんな状況にあっても生きることが大切と。
・そうそう、そこはあの「かもめの玉子」で有名な、さいとう製菓の工場内にあるのだよ。
・おなじ時刻に来た見学のツアーに同行させてもらった。

・15:15予定をちょっと過ぎて一関に向かう。が、どうみても間に合いそうになく、ちょっと途方に暮れる。
・実は、最後の最後、帰京する前に、実家に寄ろうと思っていたが、もうそんな余裕はなくなっていたどころか、普通のコースを走ったらレンタカーの返却時刻には絶対に間に合わない。
・考えたあげく、三陸道を使うことに。全線開通していないので無料で利用できる道なのだ。
・この道を使って正解だった。一関には16:40に到着、川沿いにあるGSで給油し余裕でレンタカーを返却できた。もちろん、途中かなり飛ばしたけどね。
・レンタカー屋で、ガラガラを送る手配をして身軽になって一関駅へ。

・新幹線の切符は、時間的な余裕を見て18:37にしていた。まだ1時間以上もあったが、ここで駅弁で夕飯を済ます。
・21:12予定通りの新幹線で東京に着いた。
・そこからライナー号に乗れて、22時過ぎに立川到着。強い霧雨が降っていたので近いけどタクシーにして帰宅した。



実は、ずっと天候不順だったので、写真をほとんど撮ってない。だから、これから肉付けしていきます。


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by WofNaka | 2017-08-15 23:44 | 日記 | Trackback | Comments(0)  

ちらし

最近、仕事でちらしのデザインなどをしているんですが、先日も、両者譲らずで、2案が決まらないまま、なんてことになった。

ところで、私。。。

言えないことがあって。。。

それがエスカレートしそうになっていたんです。

そうしたら、止める前に、そこから途方もない請求が来てしまったんですね。

もう、一生かかっても払えないぐらいの額で、しかも毎年なんて、無理だわー。

途方に暮れてしまっただよー。

職場にも迷惑かけてしまうし、家族にもさぁ、っていろいろと悪い方向に考えてしまって。

もう生きていけないかもしれない、なんて思ってしまったさー。


そんなことを考えていたらね、いきなり目の前に、1枚のちらしが出されたの。

そのちらしはたったの1枚しか印刷されていないものだったんだ。

例の仕事で作ったちらしなんだけど、私の上司が作ったものなのね。

そのちらしの一番下に、なんか難しい言葉で書かれた行があって。

それを読んだ、請求先の人が後ずさって引き返していったんだな。請求書を持って。

なんか意味はわからないけれど、相当な効果がある文章みたいなんだな。


そして、上司は私に向かってこう言った。

生きていれば、いろいろと抱え込まなければいけない事がある。
でも、そういう足かせがあると生きていくのはつらい。そういうものはないにこしたことはない。
これで、足かせはなくなったはずだから、あとは一生懸命仕事に打ち込んで欲しい。

あー、なんて素晴らしい上司なんだ。
借りができてしまった。大きな借りだ。

そんなことを考えていた。

そうしたら、唐突に目が覚めた。

夢だった。



そんな夢を見た。



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by WofNaka | 2017-08-08 21:52 | 夢の話 | Trackback | Comments(0)  

タイミング

一期一会という言葉が好きで、飲食店で隣同士になった人といつもおしゃべりしているお昼だったりします。
最近の職場では、訪れる方々やその時たまたま目についたちらしなどで出会いがあったりして、タイミングだなぁ、と思っています。
やっとそういう場になってきたかな、と。嬉しく思います。
私の時にはなかったけれど、いい時代になったな、と、そういう出会いの場面に立ち会うことができて幸せだな、と思います。


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by WofNaka | 2017-08-06 21:14 | 日記 | Trackback | Comments(0)