「日輪の遺産」を観て
2014年 01月 14日
終戦間際の頃、近い将来起きるであろう事を予測して、悲惨な運命をたどるかもしれない人達を密かにかくまったり、逃がしたり、そういうことに尽力した人がいる。
そして、亡き母も、壮絶な運命をたどる事無くそうやって命を長らえた人の一人であったのではあるまいか、と思われるふしがある。
これはあくまでも私の想像。
超機密情報を扱っていたであろう部署に配属されていたらしい母は、周囲の男勝りの同僚に混じってはいたものの、戦地へ赴きたいほどの血の気の多い同僚とは違い、恐らく、静かに淡々と職務をこなしていたのではと思う。身体も弱かったみたいだし。
なぜ周囲に血の気の多い同僚たちがいたらしいことを知っているか。
それは、母が逝った後の遺品の中に当時の寄せ書きみたいな日記のようなものがあって、それを見る事ができたから。もうそれは処分されていて、二度と目にする事はできないけれども、私の記憶の中に、その光景が刻み込まれている。
戦地に既に赴いている男達をかき分けてでも最前線に行かせて欲しい、ということや、上司に直談判するんだ、ということがそこには書かれていた。それは、どういう時に書かれたものだったのかはわからないのだけれど。あなたもそうでしょう、同じ気持ちよね、みたいな、そんな空気がありありと伝わってくるのだった。
母は身体が弱かったのだけれども、非常に成績が優秀で、そのために女学校の先生からその職場を推薦されたようだった。そして、職場の中でも上司から一目置かれるような存在だったらしい。そして、その上司の中で、密かに終戦時に起きることを見越して、逃がしてくれた人がいるようなのだ。
そして母は、終戦直後の混乱の中、父の実家である私の故郷に単身で行ったのだった。
母はいきなり都会から田舎に行った。
そこでの苦労は計り知れない。言葉も違う、習慣も違う、友達もいない。そんな中でどうやって60年もの長い時を過ごしたのか。
田舎に行ったのが恐らく二十歳頃。そして、結婚して私と年子の兄が生まれるのに約10数年。その間に、10年以上寝たきりの両親を一人で看ている。両親を看たために婚期を逃したのだけれど、そのおかげで父と知り合うことに。その後の人生が幸せだったのかどうかはわからないけれども、母は、女学校の授業で教わった(暗記させられた)般若心経を毎朝唱え、そして乗り切ったのかもしれなかった。
母は東日本大震災の前年の秋に逝ったのだけれども、最後は、認知症になって、本当に、小さな少女にまで戻って逝った。
認知症だったから、そうだったのかもしれないと思っていたのだけれど、入院している時に母が頻りに帰りたいと言ったその帰る場所は、私の故郷ではなく、母が生まれ育った東京の下町だった。その時は少し寂しい気もしたのだけれど、今思うのは、本当は、ずっとそこに帰りたかったのではあるまいか。
なんか、そんな風に考えて行くと、母の人生もまた違った風に見えてくるから不思議だ。
今、眠れない夜を過ごしながら、ふと、そんな思いに浸っている。
そして、それをどこにも残さずに置いておくと、忘れてしまったり、朝まで眠れなかったりする可能性が大きいので、ここに記して、寝る事にしたい。
ところで、不思議なんだけれど、私の中に母がいる。
これは母が逝ってからではなく、生前からそんな風に思えることが何度もあって、そうなのだ。
自分でもわからない不思議な話なんだけれど、母の考え方、というか考えが私の頭の中に存在するのだ。
だから、あの時も、きっと母は、同僚とは一緒に行動をともにしたくはなかったんだろうな、って思えるんだ。
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そして、亡き母も、壮絶な運命をたどる事無くそうやって命を長らえた人の一人であったのではあるまいか、と思われるふしがある。
これはあくまでも私の想像。
超機密情報を扱っていたであろう部署に配属されていたらしい母は、周囲の男勝りの同僚に混じってはいたものの、戦地へ赴きたいほどの血の気の多い同僚とは違い、恐らく、静かに淡々と職務をこなしていたのではと思う。身体も弱かったみたいだし。
なぜ周囲に血の気の多い同僚たちがいたらしいことを知っているか。
それは、母が逝った後の遺品の中に当時の寄せ書きみたいな日記のようなものがあって、それを見る事ができたから。もうそれは処分されていて、二度と目にする事はできないけれども、私の記憶の中に、その光景が刻み込まれている。
戦地に既に赴いている男達をかき分けてでも最前線に行かせて欲しい、ということや、上司に直談判するんだ、ということがそこには書かれていた。それは、どういう時に書かれたものだったのかはわからないのだけれど。あなたもそうでしょう、同じ気持ちよね、みたいな、そんな空気がありありと伝わってくるのだった。
母は身体が弱かったのだけれども、非常に成績が優秀で、そのために女学校の先生からその職場を推薦されたようだった。そして、職場の中でも上司から一目置かれるような存在だったらしい。そして、その上司の中で、密かに終戦時に起きることを見越して、逃がしてくれた人がいるようなのだ。
そして母は、終戦直後の混乱の中、父の実家である私の故郷に単身で行ったのだった。
母はいきなり都会から田舎に行った。
そこでの苦労は計り知れない。言葉も違う、習慣も違う、友達もいない。そんな中でどうやって60年もの長い時を過ごしたのか。
田舎に行ったのが恐らく二十歳頃。そして、結婚して私と年子の兄が生まれるのに約10数年。その間に、10年以上寝たきりの両親を一人で看ている。両親を看たために婚期を逃したのだけれど、そのおかげで父と知り合うことに。その後の人生が幸せだったのかどうかはわからないけれども、母は、女学校の授業で教わった(暗記させられた)般若心経を毎朝唱え、そして乗り切ったのかもしれなかった。
母は東日本大震災の前年の秋に逝ったのだけれども、最後は、認知症になって、本当に、小さな少女にまで戻って逝った。
認知症だったから、そうだったのかもしれないと思っていたのだけれど、入院している時に母が頻りに帰りたいと言ったその帰る場所は、私の故郷ではなく、母が生まれ育った東京の下町だった。その時は少し寂しい気もしたのだけれど、今思うのは、本当は、ずっとそこに帰りたかったのではあるまいか。
なんか、そんな風に考えて行くと、母の人生もまた違った風に見えてくるから不思議だ。
今、眠れない夜を過ごしながら、ふと、そんな思いに浸っている。
そして、それをどこにも残さずに置いておくと、忘れてしまったり、朝まで眠れなかったりする可能性が大きいので、ここに記して、寝る事にしたい。
ところで、不思議なんだけれど、私の中に母がいる。
これは母が逝ってからではなく、生前からそんな風に思えることが何度もあって、そうなのだ。
自分でもわからない不思議な話なんだけれど、母の考え方、というか考えが私の頭の中に存在するのだ。
だから、あの時も、きっと母は、同僚とは一緒に行動をともにしたくはなかったんだろうな、って思えるんだ。
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by WofNaka
| 2014-01-14 03:50
| 日記
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