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1961年生れ/東ニ病気ノコドモアレバ…西ニツカレタ母アレバ…南ニ死ニサウナ人アレバ…北ニケンクヮヤソショウガアレバ…/弱い立場中心の世の中に/陸前高田市が故郷 @ja1toe


by WofNaka

東日本大震災 〜最初の六日間〜

地震の翌日に帰宅後、実は、次に出社できたのは七日めでした。
家族に被災者が出たわけでもないのに、なぜ、そうなったのか。
それは、情報収集と発信に日々追われてしまったからでした。社員でもないのに。

思い返してみて、そうすべきだったのかどうなのかは、今もわかりません。
ただ、その時の経験は、何ものにも代えがたい経験ではあったな、と思います。

===

・地震の翌日、帰ろうか、どう帰ろうかと悩んでいる時に、在関東小友人会スタッフから
 「情報を共有しよう」との提案がありました。
・また同じスタッフの海外情報に明るい方からは「実家の安否が不明」「米空母が三陸沖
 に向かっている」との情報が入りました。
・そんなことがあったので、早く帰宅して情報収集にあたりたいと思いました。

当時の私の最大の関心事は【(私の)友人や知人の安否】でした。
当時、私がやっていたのはアマチュア無線、SNSではTwitter、mixi、後はメールぐらい
でした。

【13日午後:帰宅後、無線機とパソコンの電源を入れた】
・アマチュア無線界では、関西で情報収集をしていました。
 これは電離層との関係で、東京よりも東北の無線局からの情報をダイレクトに受け易
 かったからでしょう。時間とともに、東京に移りました。
・釜石、山田町、陸前高田が壊滅的、JRや国道45号線の情報が入り、Twitterでも同
 じ情報を入手、私もTwitterで再発信(ReTwite)していました。
・広田小学校に避難の方の情報が入り、800人が避難していること、泊地区が全滅と。

【情報収集がままならず苛立ちが】
・12日の夜になっても情報が集められずに苛立ちを感じていました。
 そこで、大丈夫ですかメールの宛先や当時所属していたアマチュア無線クラブに、
 「情報ください」メールを送ります。

・13日朝:mixiメッセンジャーで安否確認依頼が届きますが、何も返せませんでした。
・家内が作ったおにぎりを、宣言の必要もないのに、被災者代表でなんて言って、食べ
 ながら泣いていました。
・仙台の兄と連絡が取れました。ライフラインがダメで、キャンプ道具が役立っている
 と。
・その頃、Twitterで「情報の出所は明らかにして」と発信。

【故郷からの初の生存連絡(収集情報が初めて役にたつ)】
・13日16時:大丈夫ですかメールの2人めから「生きている」「小友中学校まで
 津波が来た」と連絡がありました。
・在京の幼馴染から現地情報がないかとの問い合わせ。先の「生きている」で初の
 安否確認となりました。

・12日に現地入りした盛岡の方からMixiメッセンジャーで連絡あり。
 中学校の上の酒屋まで水が上がり、全壊・浸水等被害がある、両親は無事、地区の
 皆で公民館で共同生活、私の実家の庭先を使用している。
 (この後、兄と話し合い、実家を避難所として提供することに)
・13日17時:知人から電話があり、実家周辺について具体的に氏名で生存情報が
 ある。

【情報共有メールを発信(3/13 20時〜)】
・13日20時:在関東小友人会スタッフ向け、現在わかっている情報をメールで
 配信。
・一時的に島になった広田半島との行き来ができた、との情報が入る。
・13日20時:入手した情報をホームページで公開できないか、と相談があり、
 小友人会スタッフに相談し依頼。

・Twitterで発信:私の情報収集のやり方をつぶやく。
 友人知人から連絡がきたら、必ず周囲の避難所や周囲の人の情報も入手してい
 ます。それを関係者にメールで流しています。自分の身内が救われるのが一番
 ですが、もうちょっと手を広げてみませんか。
・Twitterで発信
 私が流している情報は、地震発生直後に、友人知人の携帯に生きてるかメール
 を出したものへの返信などの情報をつぶやいています。ご質問への回答は期待
 しないでください。そのかわり、電話等で入った情報は、周辺の情報も聞き出
 していますので、これがすべてです。ご承知ください。

・14日00時:在京陸前高田人会用の掲示板「陸前高田情報」が開設されたと
 連絡あり。
・14日07時:市の広報メールで計画停電実施予定が配信される。
・14日09時:大丈夫ですかメール3人めからメールが入る。
 「陸前高田市は47ヶ所ほどに避難」「ライフラインはすべて駄目」「分断さ
 れていた広田半島に入れるようになった」「ここは昨夜、夜中に電気が通った」
・マンションの管理会社に計画停電のマンションへの影響を確認依頼。

【14日15時:わらしべ長者作戦開始:情報の入手と配信を繰り返す】
・陸前高田、住田他気仙地方にゆかりのある皆様に情報収集のお願いメールを
 送る。
 「現在、Twitterで主に情報を発信している」「連絡が入り次第配信予定」
 「もし、現地から情報が入った場合には、できるだけ周辺の情報(避難場所、
 状況、人数、氏名)なども聞き出して、ご連絡ください。みなさんにも配信
 します」
・時を同じくして、在京陸前高田人会用の掲示板「陸前高田情報」を開設した
 と連絡あり、掲示板からも情報配信も始まる。
・大船渡市末崎小学校の避難者名簿(画像)からテキストに打ち直してTwitter
 に投稿。関係者に配信。
・実家がある周辺から具体的な詳細情報が入り、配信。
・12日18時現在の高田第一中学校に避難の名簿1337人分の名簿を
 テキスト化して15回にわけてTwitterに発信、関係者にメール。
 とても大変な作業だった。

【14日16時】
・問い合わせに対しては、掲示板やTwitterから確認して、と返答。
・実家の地区の人的被害ゼロ連絡あり。
・Googleの安否確認システムを使ったら、との提案があったが、「Google
 は使える人が使えばよく、こちらは使えない人のための草の根活動と説明」。

【14日21時】
・関係者に連絡メール「父からの連絡」ではなく「できるだけ氏名でお願い」
 と。
・被災地入りする人への現地情報が欲しい、と連絡メールあり。
・大船渡市の安否確認サイト開設の連絡あり。

【14日22時:現地入りのための情報提供始まる、足止め説得したり】
・ガソリン問題で片道になる可能性、車を捨てる覚悟で、獣道を走る覚悟、
 無理せず引き返す勇気も必要などを連絡。
・広田町のコミュニティサイトがmixiで立ち上がったと連絡あり。
・気仙沼にAU移動基地局が入ったとTwitter情報あり。

・東京から秋田空港経由で被災地に入る連絡あり。(3/15)
・どうしても被災地に行く、という親戚を説得してやめさせた。(3/15)
・やはりどうしても被災地に行く、という友人を説得するも、折れず、
 情報のバックアップをすると連絡。(3/19)

【15日00時】
・実家の鍵を壊してでも避難所として利用していい、との連絡が現地に
 届いたと連絡あり。

【15日05時〜】
・続々といろんなSNSを経由して、安否確認情報が流れ出す。
・関係者に、初めての安否不明連絡を配信する。
 (当初は混乱を避けるため流さない方針だった)
・現地に入る人に、避難所名簿の入手を依頼。でも一通も入らなかった。

【15日21時:私はいつの間にか安否確認調査役になっていた】
・安否問い合わせのメールや連絡が多くなってきた。どれにも満足に
 回答できなかった。そしてそれは当然だった。
・韓国から安否問い合わせ連絡があった。当然、回答できなかった。

【15日23時:同じ投稿が何度も繰り返されてる?】
・Twitterで流れる緊急で人工透析が必要な情報を医療関係者に連絡
 するが、このあたりから、同じTweetが何度も流れることに気がつく。
・小友町のモビリアの情報も。

【16日09時:救難信号受信か】
・小友町のモビリアで食料が尽きかけている、との情報が、小友人会
 スタッフを通じて電話で入る。
・どうしたらいいのかわからないので、ここの警察署に電話するも管轄が
 違うと断られる。
・知り合いの災害系ボランティア関係者に、状況説明し、サポートを依頼する。
・ある方が、消防署に連絡するも、それは地元の消防署の仕事だと返事をされ
 た。でも地元の消防署はすでに機能していないと伝えると、東京消防庁に
 電話してくれた。が、それは国の仕事と拒否される。大臣クラスを知らない
 とどうにもならないな、と事の重大さに愕然とする。
 でも、諦めたくなかった。
・16日夕刻:現地で捜索活動中の救助犬のグループ長から電話。自衛隊に
 任せるしかないと。
・16日22時:力不足で申し訳ない、と中継してくれたスタッフにメール
 送信。
・17日正午過ぎ:岩手県の災害本部長から電話。
 これからモビリアに自衛隊を入れるがいいか、その情報は確かな情報か、
 と最終確認の電話が。もうびっくり。ぜひお願いします、と伝える。
 サポート依頼メールの一つが生きていた。
・実は、これには後日談が。

【16日20時:初の犠牲者連絡】
・訃報へのお悔やみメールを送付する。いつかは来ることだったけれど。

【17日:地震後、初めての出社】
・もうやり尽くした気持ちで出社。
・17日正午:ダメだと諦めていた親友から災害伝言ダイヤルを通じて
 「生きている」と連絡が入り、職場で思わずガッツポーズ。
・その直後に、災害本部長からの電話だった。




さて、後日談の件。
情報が伝わる過程で、意味合いが変わることになったようです。

一昨年の夏、私は故郷に帰省した際に、このモビリアから電話を
した方と電話で話す機会がありました。小友人会のスタッフでは
なく、モビリアから発信した方です。つまりは、救難信号だった
のかを確認したのですが、違ったのです。

単なる状況をスタッフに知らせただけだったことが、その電話で
わかりました。私は、愕然としました。だって、いろんなところ
に救援依頼をして、最終確認の電話ももらって自衛隊の出動に
GOサインを出したのですから。

でも、もう昔のことなのです。
つまり、電話を最初に受け取ったスタッフが、この件を、小友
人会に伝えて欲しい、という言葉を、食料を送って欲しいと
考えたんじゃないのかな、と思うのです。
そして、たしかにスタッフは私に伝えたのです。
正確には、私はもうスタッフではありませんでしたけど。
そして、私は当時、災害系のボランティア団体に所属していた
ことや、Twitterで地震発生後から繰り返しモビリアの情報が
発信されていた、だからそういうモードにあった、ということ
でしょうか。

ま、そういうこともあったということですかね。



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by WofNaka | 2019-03-13 19:56 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)