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カテゴリ:災害&ボランティア( 146 )

東日本大震災 〜最初の六日間〜

地震の翌日に帰宅後、実は、次に出社できたのは七日めでした。
家族に被災者が出たわけでもないのに、なぜ、そうなったのか。
それは、情報収集と発信に日々追われてしまったからでした。社員でもないのに。

思い返してみて、そうすべきだったのかどうなのかは、今もわかりません。
ただ、その時の経験は、何ものにも代えがたい経験ではあったな、と思います。

===

・地震の翌日、帰ろうか、どう帰ろうかと悩んでいる時に、在関東小友人会スタッフから
 「情報を共有しよう」との提案がありました。
・また同じスタッフの海外情報に明るい方からは「実家の安否が不明」「米空母が三陸沖
 に向かっている」との情報が入りました。
・そんなことがあったので、早く帰宅して情報収集にあたりたいと思いました。

当時の私の最大の関心事は【(私の)友人や知人の安否】でした。
当時、私がやっていたのはアマチュア無線、SNSではTwitter、mixi、後はメールぐらい
でした。

【13日午後:帰宅後、無線機とパソコンの電源を入れた】
・アマチュア無線界では、関西で情報収集をしていました。
 これは電離層との関係で、東京よりも東北の無線局からの情報をダイレクトに受け易
 かったからでしょう。時間とともに、東京に移りました。
・釜石、山田町、陸前高田が壊滅的、JRや国道45号線の情報が入り、Twitterでも同
 じ情報を入手、私もTwitterで再発信(ReTwite)していました。
・広田小学校に避難の方の情報が入り、800人が避難していること、泊地区が全滅と。

【情報収集がままならず苛立ちが】
・12日の夜になっても情報が集められずに苛立ちを感じていました。
 そこで、大丈夫ですかメールの宛先や当時所属していたアマチュア無線クラブに、
 「情報ください」メールを送ります。

・13日朝:mixiメッセンジャーで安否確認依頼が届きますが、何も返せませんでした。
・家内が作ったおにぎりを、宣言の必要もないのに、被災者代表でなんて言って、食べ
 ながら泣いていました。
・仙台の兄と連絡が取れました。ライフラインがダメで、キャンプ道具が役立っている
 と。
・その頃、Twitterで「情報の出所は明らかにして」と発信。

【故郷からの初の生存連絡(収集情報が初めて役にたつ)】
・13日16時:大丈夫ですかメールの2人めから「生きている」「小友中学校まで
 津波が来た」と連絡がありました。
・在京の幼馴染から現地情報がないかとの問い合わせ。先の「生きている」で初の
 安否確認となりました。

・12日に現地入りした盛岡の方からMixiメッセンジャーで連絡あり。
 中学校の上の酒屋まで水が上がり、全壊・浸水等被害がある、両親は無事、地区の
 皆で公民館で共同生活、私の実家の庭先を使用している。
 (この後、兄と話し合い、実家を避難所として提供することに)
・13日17時:知人から電話があり、実家周辺について具体的に氏名で生存情報が
 ある。

【情報共有メールを発信(3/13 20時〜)】
・13日20時:在関東小友人会スタッフ向け、現在わかっている情報をメールで
 配信。
・一時的に島になった広田半島との行き来ができた、との情報が入る。
・13日20時:入手した情報をホームページで公開できないか、と相談があり、
 小友人会スタッフに相談し依頼。

・Twitterで発信:私の情報収集のやり方をつぶやく。
 友人知人から連絡がきたら、必ず周囲の避難所や周囲の人の情報も入手してい
 ます。それを関係者にメールで流しています。自分の身内が救われるのが一番
 ですが、もうちょっと手を広げてみませんか。
・Twitterで発信
 私が流している情報は、地震発生直後に、友人知人の携帯に生きてるかメール
 を出したものへの返信などの情報をつぶやいています。ご質問への回答は期待
 しないでください。そのかわり、電話等で入った情報は、周辺の情報も聞き出
 していますので、これがすべてです。ご承知ください。

・14日00時:在京陸前高田人会用の掲示板「陸前高田情報」が開設されたと
 連絡あり。
・14日07時:市の広報メールで計画停電実施予定が配信される。
・14日09時:大丈夫ですかメール3人めからメールが入る。
 「陸前高田市は47ヶ所ほどに避難」「ライフラインはすべて駄目」「分断さ
 れていた広田半島に入れるようになった」「ここは昨夜、夜中に電気が通った」
・マンションの管理会社に計画停電のマンションへの影響を確認依頼。

【14日15時:わらしべ長者作戦開始:情報の入手と配信を繰り返す】
・陸前高田、住田他気仙地方にゆかりのある皆様に情報収集のお願いメールを
 送る。
 「現在、Twitterで主に情報を発信している」「連絡が入り次第配信予定」
 「もし、現地から情報が入った場合には、できるだけ周辺の情報(避難場所、
 状況、人数、氏名)なども聞き出して、ご連絡ください。みなさんにも配信
 します」
・時を同じくして、在京陸前高田人会用の掲示板「陸前高田情報」を開設した
 と連絡あり、掲示板からも情報配信も始まる。
・大船渡市末崎小学校の避難者名簿(画像)からテキストに打ち直してTwitter
 に投稿。関係者に配信。
・実家がある周辺から具体的な詳細情報が入り、配信。
・12日18時現在の高田第一中学校に避難の名簿1337人分の名簿を
 テキスト化して15回にわけてTwitterに発信、関係者にメール。
 とても大変な作業だった。

【14日16時】
・問い合わせに対しては、掲示板やTwitterから確認して、と返答。
・実家の地区の人的被害ゼロ連絡あり。
・Googleの安否確認システムを使ったら、との提案があったが、「Google
 は使える人が使えばよく、こちらは使えない人のための草の根活動と説明」。

【14日21時】
・関係者に連絡メール「父からの連絡」ではなく「できるだけ氏名でお願い」
 と。
・被災地入りする人への現地情報が欲しい、と連絡メールあり。
・大船渡市の安否確認サイト開設の連絡あり。

【14日22時:現地入りのための情報提供始まる、足止め説得したり】
・ガソリン問題で片道になる可能性、車を捨てる覚悟で、獣道を走る覚悟、
 無理せず引き返す勇気も必要などを連絡。
・広田町のコミュニティサイトがmixiで立ち上がったと連絡あり。
・気仙沼にAU移動基地局が入ったとTwitter情報あり。

・東京から秋田空港経由で被災地に入る連絡あり。(3/15)
・どうしても被災地に行く、という親戚を説得してやめさせた。(3/15)
・やはりどうしても被災地に行く、という友人を説得するも、折れず、
 報のバックアップをすると連絡。(3/19)

【15日00時】
・実家の鍵を壊してでも避難所として利用していい、との連絡が現地に
 届いたと連絡あり。

【15日05時〜】
・続々といろんなSNSを経由して、安否確認情報が流れ出す。
・関係者に、初めての安否不明連絡を配信する。
 (当初は混乱を避けるため流さない方針だった)
・現地に入る人に、避難所名簿の入手を依頼。でも一通も入らなかった。

【15日21時:私はいつの間にか安否確認調査役になっていた】
・安否問い合わせのメールや連絡が多くなってきた。どれにも満足に
 回答できなかった。そしてそれは当然だった。
・韓国から安否問い合わせ連絡があった。当然、回答できなかった。

【15日23時:同じ投稿が何度も繰り返されてる?】
・Twitterで流れる緊急で人工透析が必要な情報を医療関係者に連絡
 するが、このあたりから、同じTweetが何度も流れることに気がつく。
・小友町のモビリアの情報も。

【16日09時:救難信号受信か】
・小友町のモビリアで食料が尽きかけている、との情報が、小友人会
 スタッフを通じて電話で入る。
・どうしたらいいのかわからないので、ここの警察署に電話するも管轄が
 違うと断られる。
・知り合いの災害系ボランティア関係者に、状況説明し、サポートを依頼する。
・ある方が、消防署に連絡するも、それは地元の消防署の仕事だと返事をされ
 た。でも地元の消防署はすでに機能していないと伝えると、東京消防庁に
 電話してくれた。が、それは国の仕事と拒否される。大臣クラスを知らない
 とどうにもならないな、と事の重大さに愕然とする。
 でも、諦めたくなかった。
・16日夕刻:現地で捜索活動中の救助犬のグループ長から電話。自衛隊に
 任せるしかないと。
・16日22時:力不足で申し訳ない、と中継してくれたスタッフにメール
 送信。
・17日正午過ぎ:岩手県の災害本部長から電話。
 これからモビリアに自衛隊を入れるがいいか、その情報は確かな情報か、
 と最終確認の電話が。もうびっくり。ぜひお願いします、と伝える。
 サポート依頼メールの一つが生きていた。
・実は、これには後日談が。

【16日20時:初の犠牲者連絡】
・訃報へのお悔やみメールを送付する。いつかは来ることだったけれど。

【17日:地震後、初めての出社】
・もうやり尽くした気持ちで出社。
・17日正午:ダメだと諦めていた親友から災害伝言ダイヤルを通じて
 「生きている」と連絡が入り、職場で思わずガッツポーズ。
・その直後に、災害本部長からの電話だった。




さて、後日談の件。
情報が伝わる過程で、意味合いが変わることになったようです。

一昨年の夏、私は故郷に帰省した際に、このモビリアから電話を
した方と電話で話す機会がありました。小友人会のスタッフでは
なく、モビリアから発信した方です。つまりは、救難信号だった
のかを確認したのですが、違ったのです。

単なる状況をスタッフに知らせただけだったことが、その電話で
わかりました。私は、愕然としました。だって、いろんなところ
に救援依頼をして、最終確認の電話ももらってGOサインを出した
のですから。

でも、もう昔のことなのです。
つまり、電話を最初に受け取ったスタッフが、この件を、小友
人会に伝えて欲しい、という言葉を、食料を送って欲しいと
考えたんじゃないのかな、と思うのです。
そして、たしかにスタッフは私に伝えたのです。
正確には、私はもうスタッフではありません
でしたけど。そして、私は当時、災害系のボランティア団体に
所属していたことや、Twitterで地震発生後から繰り返し
モビリアの情報が発信されていた、だからそういうモードに
あった、ということでしょうか。

ま、そういうこともあったということですかね。



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by WofNaka | 2019-03-13 19:56 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

東日本大震災 〜発生から24時間までのこと〜

8年経って、あらためて当時を思い出して、ここに記します。

【地震発生】
正直なところ、地震発生時のことは覚えていない。

私がその時、どこにいたかだけれど。
東京の大崎にある21階建のビルの11階の目黒川を眼下に見下ろす窓際が、当時の私の席だった。
IT関連のその会社に派遣されていて、その日は、同僚が使うノートパソコンに20インチほどのモニターをつないで、その3セットを机の上に置いて、セットアップをしている時だった。

一昨日にも大きな地震があり、今度もそれと同規模だと思った。
ともかく大きな揺れで、20インチのモニター3台が左右に倒れそうなほどに揺れていたので、それを両手で抱えるように支えるので精一杯だった。

私は地震のことなら様々なことを知っていて、自信があった。高いビルの揺れは、10m近い揺れにもなって、運が悪い時には窓から外に放り出される可能性があることも知っていたから、気が気ではなかった。

眼下を流れる目黒川が、その流れに沿って、大きく波打っているのが見えた。
揺れはなかなか収まらなかった。
同僚が、すぐに震源地は三陸沖、と伝えてくれた。
あー、もしかして、ついにその時がきたのかもしれない、と思った。

【情報収集】
すぐに、自分のパソコンからインターネットで自分のブログサイトをアクセスした。そこには災害情報を入手するためのリンクがたくさん張ってあったから。すぐに潮位情報を検索した。
三陸沿岸の潮位は軒並み5mを超えていた。それも急激に上を向いてその先が当然ある、と言いたげな線だった。

この情報を、果たして故郷の皆は知っているのだろうか。ともかく逃げてくれ、それだけを祈った。
そして、このデータは帰宅してからキャプチャーを取ればいいか、と思っていたら、その後、三陸沿岸の潮位情報は欠測となってしまった。キャプチャーも取れなかった。残念だった。

【家族への連絡】
揺れは、まだ続いていた。
家内に「大丈夫」とキャラクターメールを送った。「すぐに帰れない」ことは、事前に申し合わせてあった。

30分以上も揺れが続いていた時だった、今度は、下から突き上げるような振動が何度かあったあと、また大きな揺れがビルを襲った。茨城沖を震源とする地震の発生だった。
さきほどの三陸沖の地震の揺れも、まだ収まっていなかったのに、さらに揺れが続いた。

だんだん気持ち悪くなってきたし、大きな作り付けのレール式のキャビネットが何度も行ったり来たりしていて危険だった。もう、その揺れに慣れるしかなかった。
40分ほど揺れに揺れて、翻弄された。


幸いなことにビルが倒壊する恐れはなかった。20基あるエレベーターに閉じ込められた人もいなかった。同僚たちは、映像が見られる携帯で、ニュースを見ていた。私にはその機能がなかったので、歯がゆい思いをした。

2階にあるコンビニに階段を徒歩で行った同僚から、階段の壁がパラパラ落ちていた、コンビニには食料がすでにない、と報告があった。

上司は、地震発生前から最上階にある本部にでかけていて、なかなか降りてこなかった。
夕方になって、やっと帰宅していい、と言われた気がするけれど、遅いと思った。

【夕方】
夕方になった。
実は、私は、結石の痛みが朝からあって、体調がよくなかった。
同じフロアにいる百人近い同僚のほとんどは帰り仕度を始めていたが、私はどうするか悩んでいた。
以前、帰宅困難者訓練の練習で、職場から新宿まで歩いた経験があったけれど、何もない状態で2時間かかったのを思い出していた。また自分の徒歩での限界は、せいぜい10Km、いいとこ5Kmだということも知っていた。ビルが大丈夫で、空調も大丈夫、テレビやソファーがあるフロアが10階にあったのと、水分も確保されていることを確認し、今夜はこのビルにとどまることを決意した。

腹ごしらえはしたかったので、階下に降りていった。
ふと中華料理店が開いていたので、迷わず入って、八宝菜を食べた。
これで翌朝まで耐えられると元気が出た。
何も買わずに職場のフロアに戻った。

この頃、20基のエレベーターのうち、下層階の1台が動き始めた。ただ、恩恵を受けるのは10階前後のうちの従業員だけだった。上の階の他の会社の人たちは、せっかく10階までたどり着いても、セキュリティの問題でドアを開けられずエレベーターを使えなかった。なので、その場に出くわした時だけ、人道上の支援、つまりはドアを開けて、エレベーターを使ってもらった。

【帰宅困難者】
かなりの同僚が歩く覚悟で会社から出ていったが、多くの人が迷っていたのも事実だった。
当時、私は帰宅困難者になってもいいように、水やお菓子やホカロンなどの備えをロッカーに入れていたので、徒歩で帰る人に渡したり、帰宅困難者訓練での教訓を教えたりして、無理はしないようにと(徒歩で帰ること自体が無理だとわかっていたけれど)送り出した。

目黒川の向かいにある小学校が見えた。バラバラと人が入っていくのが見えた。帰宅困難者の受け入れだろうな、とはわかったけれど、そもそも海抜が低いのが心配だった。津波に襲われたら、浸かるだろうことは目に見えるようだった。

社員らはみな帰宅の途につき、派遣の私だけがこの部署に残った。

【夜】
夜は1階下階にあるテレビの前で過ごした。
映し出される映像のすべてが信じられなかった。

気が滅入るばかりだったので、職場の自席にもどり、中断していた仕事を2時間ほどかけて片付けた。次にいつ始められるのかわからなかったから。

また当時、毎日持っていっていた、アマチュア無線のハンディ機に電源を入れるも、充電量が少なく、なんてこったと思った。電池に切り替えたものの、うまく使い方がわからず、宝の持ち腐れになった。でも、みんなのパソコンから出るノイズのために、無線機が使えない、ということもわかった。

夜は眠れなかった。
流れてくるニュースをぼんやりと見ていた。
仕事で敵同士だった情報セキュリティの社内の監査員もそこにいたので、明け方までおしゃべりをした。当然、仲良くなれた。

【大丈夫か? メール発信】
明け方、知人や友人10名に以下のメールを送る。

件名:大丈夫ですか
内容:
・特に仙台と岩手の状況がわかりません。
・こちらは,帰宅困難者で会社で待機中です。
・壊滅的ということしかわかりません。
・みなさんの無事を祈ってます。頑張って下さい。

最初の返信は仙台の友人からあったが、「あんた誰?」との返信。
あちゃー、確かに名乗ってないわー、と改めて名乗って発信。

その後、次のような返信があった。
・仙台はとりあえず大きな被害なく、でも ずっと停電
・海辺のほうは津波の被害がすごいようだ
・大船渡の様子が解らない…連絡とれない
・親友の所は津波にあってるはず。電話したんだけど返事こない
・盛大船渡の津波はかなりすごい事になってる様子
・実家の母さんとも連絡とれないん
・無事を祈るだけ

【自衛隊のヘリが上空から撮影】
自衛隊のヘリが海岸線に沿って北上し眼下の様子を伝えているのがTVで放映されていた。
私の田舎も撮影。陸前高田市に家は見えなかった。信じられない光景だった。
米崎町上空、一昨日にスカイプで津波について喋った親友の家が見当たらなかった。足が悪い親友なので、ダメだと思った。
小友町上空に達しそうだったので、別の友人に電話。TVを見ることができないとのことなので、実況中継をした。友人の実家近辺(三日市、両替地区)が更地になっているのが見えた。そのまま報告。
天涯孤独になったかもとも伝えたが、そんなことにはならなかったとわかった。
柳沢地区は、かろうじて見れた。自宅付近は見えなかったが大丈夫らしいと思った。

地震から津浪の到達までの時間があったのかなかったのかがわからなかったし、不安だった。
すぐに襲われたのなら犠牲者が多いだろうと思った。その後30分ぐらいの余裕があったと知る。

【これからどうする】
さて、時間がどんどん過ぎていく。
さすがの私も、ふた晩ここにいるわけにもいかず、やっぱり帰宅困難者になるのかと、ひとり不安の中にいた。そこへ、同じ部署の仲がいい同僚が現れた。こちらも派遣社員。そこで、これからどうするかを話す。彼は、渋谷まで歩こうと思う、ということだった。
彼が帰宅の途について、1時間。

【動く】
私も意を決して、渋谷に向かって歩き始めた。
すると、電車の音がした。
埼京線が動いていた。
すぐに大崎の駅に戻って、電車を待つ。
とりあえず新宿まで行った。

【精神的におかしくなっていたのはわかっていた】
心の整理ができていなかった。
このまま自宅に帰ったら、混乱したままになってしまって、この先の精神状態が心配になった。
そこで、百合ヶ丘にある知人の診療所に電話をして、これから言って話したいことがあると伝えた。土曜日の午後だから、もうすでに時間外だったけれども、待ってもらった。

この地震のこと、故郷のこと、親友のこと、いろいろと溢れ出るままに話した。
2時間ほど聞いてもらって、少しすっきりした。

そして、新百合ヶ丘まで歩き、そこから多摩センター駅に電車で向かい、多摩都市モノレールで自宅に帰ったのが、地震から丸1日経った頃のことだった。

家族にも家にも、被害がなかった。






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by WofNaka | 2019-03-12 16:46 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

生還へのこだわり

そういえば。。。

震災の前までは、究極の生還についてこだわりがあって、そういう本を読み漁っていたっけ。

・漂流 吉村昭
・生と死をわけた一瞬 証言集
・エンデュアランス号漂流
・ダイバー漂流 極限の230キロ
・たった一人の生還―「たか号」漂流二十七日間の闘い
・アポロ13号

キーワードは「どんな状況になっても諦めない」だ。

そして、今、私の本棚には、そのほとんどが残っていない。
どうしちゃったんだろう私。


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by WofNaka | 2019-02-28 17:09 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

14年間の活動に終止符

2004年の夏。

それは、私が中学生の時に始めたアマチュア無線の開局30年だった。

それまでは、自分の楽しみとしてやってきたアマチュア無線だったけれど、もともと津波が常習的にやってくる土地で生まれ、災害の情報収集をしてきたことから、アマチュア無線を災害に役立てはしないか、との一念発起で関東のアマチュア無線のコールサインを取得、それを機に、アマチュア無線連盟の非常通信ボランティアに登録、こうして私のボランティア活動がスタートした。

いろいろとやった。
アマチュア無線での通信から通信の仕方についていろいろと考え温めてきたもので、救助犬の訓練でアマチュア無線を使っていることを知り、2年ほどそこで、通信の仕方を教えたり、自ら所属するボランティア団体でも通信訓練を実施、さらには、同じ思いの人とグループを作って、通信実験を行ったりした。

東日本大震災の前には、アマチュア無線クラブ同士で連携をしてネットワーク作りが必要だとか言って、アマチュア無線の祭典であるハムフェアーに参加し、お互いに名刺交換、意見交換をしたりした。

そうして迎えた東日本大震災。

あまりに大きな災害だったこと以上に、自身も体調を大きく崩して入院・手術(失敗)・再入院・手術を繰り返していた。

それでも、それでも、災害系のボランティアに向ける情熱は強く熱かったのに。。。

ね、どうしちゃったんでしょう的な。。。

やはり、仕事が干されたら、そこは難しいし。
ボランティアより仕事じゃないの、とのプレッシャーもあったし。
だんだんと強さに陰りが出てきた。

そしていろんなことがあって、ここ2年ほどは、どうやったらあの時のような熱い気持ちで向き合えるのか、とそんなことを考えていました。

そんな中でも仕事が決まり、しかもこのボランティアに向ける熱い思いが今の職場に向かわせて働き始めるのだけれど、その熱い思いを継続することはもはやできなくなってしまった。

そうしてついに辞めてしまう、アマチュア無線クラブ退会。
それでも、できることをやればいいと思って続けてきたけれど、今回、思いっきり体調を崩した。

遠い将来、の想定内の出来事だったけれど、たった、たった数日でそこに至ってしまった。
しかも、どうやって復旧したらいいのか、その目処も立たない中で、所属するボランティア団体に籍を置くことができないと判断。

14年間続いた災害ボランティアとの関わりは、ここで終わることになった。


頑張ったね、なかちゃん。


本当に頑張ったよ。
いろんな活動、楽しかった。

災害系ボランティアへの関わりはなくなったけれど、今までの積み重ねで得たものはあるし、ボランティアをすることの精神は残っているさ。
まぁ、あまりボランティアという言葉は好きではないけれど、その活動の精神は理解したつもり。

できることをこれからもやっていく、というところに変わりはないのだから。


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by WofNaka | 2018-05-27 18:38 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

災害系ボランティアへの熱い思いは。。。

2004年にアマチュア無線開局30年を記念して無線を災害時に役立てられないか、と思って、ボランティア活動を始めた。
中学生の頃に、故郷で繰り返される津浪災害を知った頃から少しずつ集めた災害情報もあった。
そしていろいろとやったんだな。

・救助犬の活動をしている団体に、通信の仕方を教えた。
・防災訓練している無線クラブに所属して活動しようとした。
・災害時に無線での連携を視野に入れて自分達でグループを作って遊びのような訓練や数々の実験をした。
・東海・東南海・南海地震を視野に入れて東海地方の無線クラブと連携を取ろうとした。

いずれも東日本大震災の前の話。

体力が衰えだした数年前からは、する側からされる側になってきたし、自分の中でそれまでの熱い思いが冷めてきた、という話は、以前にもしたことがある。
最近は、見えないところで地味なことをやっているのかな。
できる時にできることをやるのがボランティアであるとするならば、これからは分相応のことをやっていくのかな、と思う。

ところで、あの熱い熱い思いは、どこに行ったんだろう。

もう過去の話になってしまったんだろうか。





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by WofNaka | 2018-04-15 22:28 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

活動時刻の天気(百葉箱)

家を出た時:みぞれ、気温4.6度、北北西の風3m
集合時:雪、気温3.5度、北北西の風4m
設営開始時:雪、気温3.3度、北の風4m
提供時:雪(積雪有り)、気温2.2度、北の風3m
解体開始時:雪(積雪有り)、気温2.7度、北の風3m
反省会時:雪、気温2.8度、北北東の風2m
帰宅時:雨、気温4.8度、北北東の風3m
 
全部外でした。さすがにお昼は動いていても寒くて。
ただ、出かける時に、上は普段着の上にダウン、ジャンバー、合羽を着、下は普段着の上に暖パン、合羽を着、さらに師匠のお申し付け通りに、両足の甲、両太もも外側、腰の両サイドに計6枚のホカロンを貼って、出かけました。
 
朝の降りがそれほどでもなく、日中の予報も小雨だったので、バイクでお出かけ。途中、雪が積もっていくのを横目で見ながら不安な気分で活動、夜はともかく安全に安全にと言い聞かせながらバイクで帰宅しました。
 
ここんとこ身体の冷えから両足がつってしまうがありましたので、これだけの対策をとっての今日の参加になりましたが、やはり10年ほど前に活動していた救助犬の訓練で鍛えられたことと、バイクに乗って寒さに慣れてきていること、直前の両足のつりからの対策を万全にしたところあたりで無事に乗り越えられたものと、関係者に感謝しております。
 
天候の悪化は、一週間も前から毎日チェックしていたため、雪にはなることは想定内でしたけれど、寒かったでした。
でも、東日本大震災の発生した時から翌日まで、少なくとも生還した方々の映像では雪が降っていました。それの追体験をさせてもらったものと思っています。
 
そして、帰宅してからお風呂に入りましたが、冷えによる痛みはなく、でも筋肉痛の痛みだとわかる状況で、活動中にはわからなかったホカロン効果を帰宅してから実感した次第です。
さて、明日は休み。どんだけ痛みがでてくれるのでしょうか。


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by WofNaka | 2018-03-21 19:50 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

震災後の故郷への旅 〜津浪のあのとき、そして今〜

今回の故郷への旅の中で、震災当時の状況を知ることができるだろう、ということも目的の一つだった。
誰が言ったかは、読む人が読めばわかるだろうけど、念のため、わからないように順不同に並べてみます。
また、実際の発言への補足もしています。ご了承ください。

<深夜にも大津波があったのではないか>
・3月11日の23時頃にも大きな津浪が来たらしいんだが、夜だし暗いしで、だれも津浪は見ていない。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。
・近所のおばあさんが、夕方まであった自宅が夜が明けたら無くなっていたから、夜津浪があったのかもしれないと言っていた。
・その建物の一番てっぺんでかろうじて津浪から逃れた人に、深夜津浪がなかったかを聞いたけれど、自分が生きるのに精一杯で、下で何が起きているのか知らないと答えた。
・深夜23時の津浪はわからないけれど、日中大船渡湾内に浮かんでいたタグボートが、夜が明けたら、陸地の奥にあった。きっと大きな津浪があったんだと思う。暗いから誰も気がついていないけど。

<遺体探し>
・遺体を調べるのに、ひとりひとりの口を開けて、1本1本の歯を調べていく。とてもできない作業だと思うけれど、それを誠心誠意取り組んでいる姿に頭が下がる思いだった。
・水に浸かった遺体は身長が5cmくらいは伸びているものだと警察官から聞いたけれど、もっとそういう情報は早く欲しかった。身長が違うから、自分の子供だと気がつかなかった。
・ジャージのような服装をしていた人達の遺体は、全部脱げて無くなっていて、全裸の遺体が多かった。バンドなどで締め付けるような服装は脱げなかった。遺体にあったブラジャーに見覚えがあって自分の子供とわかった。
・最終的にはDNA鑑定になったが、3週間もかかると言われて途方に暮れたけれど、最終的にそれを受け入れた。
・昔の人の話だけれど、夜になると遺体から燐が出て炎が見えるので、それで遺体がどこにあるのかわかると言われて怖かった。
・昔の震災時(明治・昭和の三陸大津波の時の話)には、地引き網を使って遺体を収容した。砂浜に水を蒔くと砂浜に脂が浮いて来る場所がある。そこに遺体が埋まっている。

<ガソリンの使い道>
・自分の車は軽油車だったから、車に関してはガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。職場関係で灯油を保存しているところから灯油をもらって、走ることができた。
・発電機もバッテリーも十分にあったから、無線で発信することもできたけれど。自宅に集まった避難者のこと(つまり当座の生活のこと)を考えるとガソリンを無線機用に使うことができなかった。
・自分の車は軽油車だったから、ガソリンで困ることは無かったし、灯油でも走ることができた。

<火事場泥棒>
・火事場泥棒はすぐに現れた。見知らぬ人がいたので声をかけたが、遠くから家族を捜しに来た、と言われたら何も言えなくなった。でも、手当たり次第に、バックを開けて中身を確認していた。
・津浪の後で、物を探しに出かけた人が、めぼしい物があるとマジックで自分の名前を書き入れていったそうな。でもそれを自宅があったところに積み重ねていたら、それをごっそりと盗まれてしまったらしい。
・火事場泥棒がすぐに現れて、深夜に懐中電灯で海岸近くを歩いていたのが、まるで蛍の光のようだったが、その23時頃の大きな津浪で払われてしまったようだ。

<気がつかない? 逃げるを知らない?>
・津浪が来ているのにわからずに店内の掃除をしている人がいた。「津浪が来ている、早く上に上がれ」と何度も叫んだのを聞いて、かろうじて逃げることができた。そのご夫婦は「天からそういう声が聞こえたから逃げた」と言ったそうだ。
・陸前高田の人の多くは津浪が来ても逃げることが思いつかなかったのではあるまいか。津浪、即逃げる、が教育されていなかった可能性がある。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)
・広田町の海に近いところに住んでいるあるご婦人は、ご主人が戻らなければ一歩もそこを動かないと言い張ったらしいが、なんとか津浪の直前に、他の人に手を引かれて逃げて無事だった。
・津浪のビデオを撮影していた人が、反対側から線路伝いに来た津浪で亡くなった。ビデオ撮影していると自分の位置がわからなくなる。自分は携帯電話を持っていなかったから、生き延びることができたのだと思う。もっと多くの人がビデオやら写真撮影をしていながら波にのまれたのではないかと思う。

<自衛隊の活躍>
・一旦避難した後で有志を募って遺体捜索に出かけたが見つけることはできなかった。後で同じ場所に自衛隊が入って捜索をしたら、そこから6人が見つかった。一つの遺体を見つけると、そこに白い旗を立て、その付近を捜索している自衛隊員がみなそこに集まり合掌をする。とても遺体を丁寧に扱っていて有り難かった。

<避難所で・・・自分ができることを精一杯やった>
・津浪で運良く逃げおおせた後で、お寺に避難していた。職業柄、お寺への出入りがあった。すぐにお墓に行って、集められるだけのロウソクを集めた。またお寺に保管してあるロウソクをもらったり、他のお寺にも行ってロウソクをひたすら集めた。
・仕事から帰ったら必ず小銭入れから小銭を出して保管しておいたんだけれど、その中から5百円玉を奥さんがこっそりへそくりにしていたらしい。震災後に変色したお金を仕方なく奥さんが出してきた。変色していたお金を1枚1枚酢で洗って数えてみたら30万円にもなっていた。30年間のへそくりだった。それを、寄付したとのこと。
・山の中腹にある職場には大勢の避難民が来ていた。古い建物を保存している場所なので、鍋釜が使えて火もおこせる状態にあった。乾麺を自宅から大量に運びこんで、まずは身体を温めて欲しいと思い、みなに振る舞った。その職場で2週間、避難民のために尽くしたが、上司からもう自宅のことをしなさい、と言われて帰宅した。
・夜間に灯りを付けると、やっかみが起きる可能性があったから、発電機は明るいうちに使って、日暮れとともに寝て夜明けと共に起きるようになった。
・お風呂に入りたいから、30L入れられるタンクに水を入れて運んだ。でも、お風呂に入る順番は子供達が先で、結局、自分が入る時には水位は数センチほどで入れなかった。

<トラウマ>
・津浪の後から必ず午前2時目が覚めてしまうようになった。トラウマになった。
・家訓で、どんな小さな注意報でも、何も持たずに高台に逃げろ、と言われていた。でも、他の家では何もしないのに、こんなことをしていていいのか、という思いもあった。震災の日は、大きな揺れだったから、それでも家訓に従って家を飛び出して高台に避難して命が助かった。(岸壁のそばに住んでいた)(再掲)
今は、高台に引っ越したので30mの津浪が来ても安心な場所に住んでいるけれど、地震の度に、びっくりして逃げようとしたり、気持ちが落ち込むなどする。PTSD状態になってしまった。

<津浪来襲>
・阪神淡路大震災の時にも縁があった。東日本大震災でも2日前に陸前高田市内を散歩したし、当日の午前中には、年度末だからと消耗品を過剰なほどに購入。生活で使うお金も引き出しておいたし、食料も多めに購入していた。そしてその日の午後に津浪が来た。自分は山の中腹にある職場から津浪の一部始終を見ていた。気持ちが動いたのは最初だけだった。なんかこれを目に焼き付けて後世に語りついでいくのが自分の使命だと、そのとき天の声を聞いたと思った。それからしばらくは何の感情も起きず、ただ、陸前高田市が津浪に襲われていくのを見守った。
・一旦逃げたけど、ものを取りに戻った人の多くが津浪にやられた。自分も携帯電話を持っていないことに気がついて海岸のそばにある職場に戻ろうとしたけれど、鍵を開けるのに戸惑って諦めた。職場の入り口が津浪の死角に入っていたから怖くて仕方がなかった。そしてとりあえず、すぐ近くを走っているJR大船渡線の線路に上がった。ほどなくして津浪が来襲。津浪は線路と交差している旧国道のをまっすぐに駆け上がった。ここにいてはダメだととっさに思って、法面を上がろうとしたが革靴だったためと刈ったばかりの草地で滑って上れなかった。なんとか上って、道路沿いに止めていた車に乗りエンジンをかけた。車のタイヤはすでに津浪の波を被っていた。そこでもしエンジンが掛からなかったら、その車は捨てようと思ったけれど、一発でエンジンが掛かったので、そのまま高台に逃げることができた。
(車や携帯に固執せずに助かった)

<家族、家>
・自分の家があった場所に行ったら、自分が使っている野球のヘルメットが落ちていた。その先には自分が最近購入したパンツがあるのを奥さんが見つけた。そしてその先に2階屋の自宅が平屋になってあった。
・ご主人が陸前高田市内にいて被災したらしいことを聞いて、いてもたってもいられなくなった。後で無事生還して再会できたけれど、夜寝ている時に、本当にこの主人は生きて帰ってきたのか、足がないのではないかと、幾度も足を触っては、生存確認をした。

<震災後の話>
・自分の車は子供が乗っていってしまったので、家族の車を借りて仕事に行こうとして、スリップしてガードレールの隙間から水路に落下してしまった同級生がいる。ガードレールに擦り傷でもあれば、すぐに事故に気づいた人もいたかもしれないが、ガードレールの隙間から落ちたので、しばらく誰にも気づかれなかったようだ。自分の車ならまだしも、他の車だったために逃げられず、そのまま水死してしまった。悔やんでも悔やみきれない事故だった。
・海の中にはまだまだ瓦礫がある、車なども海中を覗くと見える。一応、遺体の捜索はしたようだけれど、あれが残っていると漁に支障がある。でも、今更引き上げたところで大変。お金もないし。特に座布団などはひどい臭いがする。

<その他>
・大船渡や気仙沼の車の残骸は、車の形を保っていたが、陸前高田の車の残骸は、どうすればあんなに潰れるのかと思うほどグシャグシャに潰れてスクラップのようだった。なぜだ。
・大船渡市内の場合は、家の基礎の部分がみな一様に折れて、そのままの形のままで家々が流された。

<不満>
・沼や海の捜索。自衛隊員のような捜索はしない形だけの捜索では見つかるものも見つからない。
・復興住宅も、高台の家(または土地)もがら空きだ。
・陸前高田の土盛りした場所、あんなやり方では。。。道路も毎回通行止めの場所が変わる。あれでは地元の人でも迷ってしまう。



また、思い出したら追記します。


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by WofNaka | 2017-08-17 00:24 | 災害&ボランティア

東日本大震災の前後を比べる

東日本大震災の後、多くのボランティアが被災地を訪れ、復興に尽力いただきました。

が、震災前を知らない方々には、どこがどれほど破壊されたのかを知ることはできなかっただろうなと思うのです。

そこで、様々な方々から提供されたり、自身が撮影した写真で、その前後を比較してみます。
新たに写真が出てきたら、追記していきます。

★まずは、陸前高田市高田町をYahoo地図で比較します。
左側、こんなにこちゃこちゃと家があったのが、右側、全くの更地と化しています。そして、恐ろしいのは、こんな中に避難場所が何カ所もあって、ことごとくやられてしまったということです。みんな信じて避難したはずなんですよ。
a0265144_20532746.png

地図上の場所は、この赤線のあたりかな。
a0265144_21002006.png
まぁ、陸前高田市は広いんで。何せ東京23区の西半分ぐらいの広さはありますからね。

★次の写真は、私の実家の側から、西側を見た写真。矢印方向の撮影です。
a0265144_21084418.png
左側の震災前の写真の正面の海の手前にもやって見えるのが、上の地図の長方形部分にある集落です。
でも、右側の震災後の写真では何も見えません。そうです、全て流されました。多くの方が今も行方不明なのです。
a0265144_21103073.png
★次の写真です。
50年ほど前のチリ地震津波の時は、下の地図の小友町と書かれている付近は海でした。そう、ちょうど、ホームペースを横にしたような形の地域は海でした。北を道路が、南の水路あたりに囲まれた地域です。
a0265144_21133430.png
写真は、その下方から矢印の方向に撮影されています。
a0265144_21162494.png
真ん中から、ごっそり持ってかれています。
右の写真をよく見ると、構造としては土盛りされた上にコンクリートが被せてあります。こんな構造なんですね。砂山を単にコンクリートで固めただけみたいです。これでは壊れるのは、当たり前なのでは、との素人考えですけど。

★写真の右のプールは、小友小学校のプールです。
 解説は必要ありませんね。
a0265144_00163531.png

こんな風にして、過去の美しい景色と、震災後の状況をお伝えしていければと思っています。

副題としては「たしかにそれはそこにあった」でしょうかね。







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by WofNaka | 2017-03-15 21:20 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

東日本大震災の前後を比べる

東日本大震災の後、多くのボランティアが被災地を訪れ、復興に尽力いただきました。

が、震災前を知らない方々には、どこがどれほど破壊されたのかを知ることはできなかっただろうなと思うのです。

そこで、様々な方々から提供されたり、自身が撮影した写真で、その前後を比較してみます。
新たに写真が出てきたら、追記していきます。

★まずは、陸前高田市高田町をYahoo地図で比較します。

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地図上の場所は、この赤線のあたりかな。
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まぁ、陸前高田市は広いんで。何せ東京23区の西半分ぐらいの広さはありますからね。

★次の写真は、私の実家の側から、西側を見た写真。矢印方向の撮影です。
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左側の震災前の写真の正面の海の手前にもやって見えるのが、上の地図の長方形部分にある集落です。
でも、右側の震災後の写真では何も見えません。そうです、全て流されました。多くの方が今も行方不明なのです。
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★次の写真です。
50年ほど前のチリ地震津波の時は、下の地図の小友町と書かれている付近は海でした。そう、ちょうど、ホームペースを横にしたような形の地域は海でした。北を道路が、南の水路あたりに囲まれた地域です。
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写真は、その下方から矢印の方向に撮影されています。
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真ん中から、ごっそり持ってかれています。
右の写真をよく見ると、構造としては土盛りされた上にコンクリートが被せてあります。こんな構造なんですね。砂山を単にコンクリートで固めただけみたいです。これでは壊れるのは、当たり前なのでは、との素人考えですけど。

こんな風にして、過去の美しい景色と、震災後の状況をお伝えしていければと思っています。

副題としては「たしかにそれはそこにあった」でしょうかね。







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by WofNaka | 2017-03-15 21:20 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

東日本大震災の前後を比べる

東日本大震災の後、多くのボランティアが被災地を訪れ、復興に尽力いただきました。

が、震災前を知らない方々には、どこがどれほど破壊されたのかを知ることはできなかっただろうなと思うのです。

そこで、様々な方々から提供されたり、自身が撮影した写真で、その前後を比較してみます。
新たに写真が出てきたら、追記していきます。

★まずは、陸前高田市高田町をYahoo地図で比較します。

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地図上の場所は、この赤線のあたりかな。
a0265144_21002006.png
まぁ、陸前高田市は広いんで。何せ東京23区の西半分ぐらいの広さはありますからね。

★次の写真は、私の実家の側から、西側を見た写真。矢印方向の撮影です。
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左側の震災前の写真の正面の海の手前にもやって見えるのが、上の地図の長方形部分にある集落です。
でも、右側の震災後の写真では何も見えません。そうです、全て流されました。多くの方が今も行方不明なのです。
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★次の写真です。
50年ほど前のチリ地震津波の時は、下の地図の小友町と書かれている付近は海でした。そう、ちょうど、ホームペースを横にしたような形の地域は海でした。北を道路が、南の水路あたりに囲まれた地域です。
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写真は、その下方から矢印の方向に撮影されています。
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真ん中から、ごっそり持ってかれています。
右の写真をよく見ると、構造としては土盛りされた上にコンクリートが被せてあります。こんな構造なんですね。砂山を単にコンクリートで固めただけみたいです。これでは壊れるのは、当たり前なのでは、との素人考えですけど。

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by WofNaka | 2017-03-15 21:20 | 災害&ボランティア | Trackback | Comments(0)

1961年生れ/東ニ病気ノコドモアレバ…西ニツカレタ母アレバ…南ニ死ニサウナ人アレバ…北ニケンクヮヤソショウガアレバ…/弱い立場中心の世の中に/陸前高田市が故郷 @WofNaka


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